巨大ターミナル「新宿」を迷路駅にした数奇な歴史 古くからにぎわった東口、浄水場だった西口
計画図には新宿駅東口に東京市電のループ線や西武鉄道軌道線(後の都電14系統)も描かれていた。だが、これら計画図に描かれた鉄道路線は、すでに実現していた小田急以外は、ほぼ未完に終わった。
東京市が作成した新宿駅周辺の計画図を非現実的と一笑に付すわけにはいかない。この計画は戦後の新宿駅西口再開発事業に大いに生かされることになるからだ。
戦後の新宿駅西口再開発事業が始動するよりも前の終戦直前、京王はそれまで駅を構えていた新宿3丁目付近から、ターミナルを西口に移転する。これは1945年5月の、いわゆる山手大空襲が原因だった。
京王は空襲で変電所が被災し、架線電圧が降下。そのため、電車が甲州街道の陸橋を上り下りできなくなった。そこで、陸橋を超える必要がない新宿駅西口へホームを移転した。現在も京王は同所に駅を構える。ここは、先述した東京市が東京横浜電鉄のために用地を確保していた場所でもある。
小田急に続き京王が西口へ移転したことで開発の糸口になったわけだが、戦災復興は東口から取り組みが進んだ。ようやく西口に光があたるのは、1949年になってからだ。
戦前の計画も生かされた西口開発
新宿区は総合発展計画促進会を発足させ、淀橋浄水場の移転促進や新宿駅の改良促進、中央卸売市場淀橋分場への貨物専用引込線の敷設などを打ち出した。駅は関東大震災で建て替えられたが、戦後には駅舎はすでに古びていた。また、浄水場を移転させ、その跡地も含めて駅舎を建て替えることによる駅西口の発展も期待された。
しかし、西口の開発は遅々として進まなかった。淀橋浄水場が広大なので一手に引き受ける事業者がおらず、かといって細々とした開発にすれば統一感のない街になってしまう。
昭和30年代に東京五輪を機にした都市インフラの整備が始まる。その恩恵もあり、五輪と無縁な新宿駅西口も開発が進んでいく。新宿駅西口再開発は戦前期に東京市が作成した計画図と、戦後復興期に東京都の都市計画課長だった石川栄耀が描いた青写真をベースに、建築家・坂倉準三の手に委ねられた。
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