真珠湾攻撃から80年「元日本兵」が語る戦争の内実 あの時代の「狂喜」と「悲嘆」はなんだったのか

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真珠湾奇襲攻撃が日米開戦のきっかけとなったのとほぼ同時に、陸軍がマレー半島に奇襲上陸してイギリス軍と戦いながらシンガポールを目指すマレー作戦が開始されている。この作戦に参加した元日本兵は「あのときは、面白かったぁ」と懐かしそうに振り返った。

開戦前に召集令状を受け取ると、輸送を担当する自動車部隊に配属された。朝鮮半島で戦車部隊と一緒に訓練を受けると、釜山から台湾に移動。そこで自動車を輸送船に積み込んだところで1941年12月8日を迎えた。

シンガポールまでは、自動車が走れる舗装された道だったから、自分の運転する車を飛ばして、とにかく競ってシンガポールを目指した。

その先をいく兵士たちは自転車に乗って目的地を急いだ、いわゆる「銀輪部隊」が率先していた。彼らと徒党を組むようにマレー半島を制圧していく勢いは、まさに痛快だった。そのとき、日本が負けようなどとは夢にも思えなかった。

敵兵のことを敬称をつけて呼んでいた

当時の日本兵に共通するのは、敵兵のことを「敵さん」と敬称をつけて呼んでいたことだった。「鬼畜米英」ではなかった。その勢いに乗じて敵さんの資材をぶんどって回った。自動車のガス欠が見えていたから、それこそ制圧した敵さんの飛行機の中から燃料を抜き出して運転する自動車に使った。

ところが、日本軍の自動車が使うものと違っていた。あまりに高品質で、今でいうところのハイオクのようなものだった。これを使って自動車を飛ばしていたら、快調な走りではあったが、かえってエンジンがおかしくなった。すでに物資の違いはそんなところにも見えていたが、日本軍の兵站が脆弱であっても、それでも相手の高級品を手中に納めることは容易だと感じた。

あるときは、敵さんの機関銃だけを備え付けた鉄板だけの小型のタンクが置き去りになっていた。これはエンジンが利用できる。そう判断した自動車部隊は、エンジンを取り外して持ってきたことがある。

車体からエンジンを取り外すのに時間がかかり、ようやく手に持って運び出そうとしたとき、鉄板の隙間から光るものに気がついた。注視してみると、そこに人の目があった。イギリス兵がこちらを見つめていた。それも3人。彼らはタンクに乗ったまま、日本兵がエンジンを抜き取る様子をただじっと見ていた。

驚くと同時に愉快になった。敵さんが手出しできないほどに、それだけ日本には勢いがある。強いのだ、負けるはずがないのだ、そう思った。日本軍の勢いはそのままに、翌年2月15日にはシンガポールを攻略している。

ただ、いいことばかりは続かなかった。このあと戦局は大きく転換する。

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