開戦の日に読みたい「戦時下東京の絶望的な日常」 驚愕!「80年近く前の日記が今の日本と酷似」

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たとえば戦時中いつも以上に政府は、人も情報も自分たちに都合のよいものを優先し、都合の悪いものは排除した。清沢洌も徹底的に排除されたひとりである。欧米の専門家である清沢の発言を排除し、政府には好ましいが国際情勢に疎い国粋主義者を優遇し世論を誤らせた。偏った言論情況を憂いつつ清沢はこう記した。

昭和十八年七月十四日(水)
 物を知らない者が、物を知っている者を嘲笑、軽視するところに必ず誤算が生じる。大東亜戦争前に、その辺の専門家は相談されなかったのみではなく、いっさい口を閉じさせられた。

こうした情報源の選別は戦時中のことだけではない。令和の最近も新型コロナ下では、政府の対策と異なる見解が多くの専門家から発せられた。その中には有用と思われる意見も数多くあったようだが、政府は自ら選んだ専門家の見解や意見を背景に「感染対策の専門家の意見によれば」とオーソライズした。

今夏の東京オリンピックの開催は明らかに政府の判断だが、判断の根拠としてもっぱら「専門家の見解」を挙げた。その結果、新型コロナの感染者数はオリンピック開会前から急増し、閉会後10日間ほどピークにあったことは記憶に新しい。

当時と現在の相似形が目に付くのは中国に対する国民感情だ。清沢の日記にこうある。

昭和十八年二月二十日(土)
 議会において青木一男大東亜相が、蒋介石は絶対に交渉の相手とせずと言った。討伐あるのみと東條首相も言った。相手も同じことを言っているようだ。

中国に対する日本人の国民感情は戦後最悪で、清沢の記述を見ると戦時中の対中感情は今と区別がつかないほどだ。

当時の日中は戦争中であり、敵国中国に対する感情が最悪なのは当然だが、現在平和の日本人の対中感情が戦争時に近いというのはもはやただごとではない。

なぜいま『暗黒日記』なのか

清沢洌は戦前・戦中に『中央公論』や『東洋経済新報』などで活躍した日米外交を専門とする外交ジャーナリストである。清沢は1890(明治23)年に長野県に生まれ17歳で渡米、苦学して現地のハイスクール、大学を卒業して現地の邦字新聞の記者を務めた。その後1918(大正7)年に帰国し、中外商業新報(現日本経済新聞)、東京朝日新聞(現朝日新聞)の記者を経て、外交ジャーナリストとして活躍するようになった。

戦時下にあっては政府から総合雑誌への執筆が禁止され、メジャーな舞台での言論活動は大部分が封殺された。

『暗黒日記』は清沢が、いつかときが来れば出版するつもりだった現代史の資料として書き始めたものである。開戦から1年後の1942(昭和17)年12月9日から書き始め、亡くなる直前の1945(昭和20)年5月5日で絶筆となった。清沢は没年の正月元旦にこう記していた。

昭和二十年一月一日(月)
 日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとか言って戦争を讃美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼らが、ほんとうに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。
次ページ76年を経て現実味を帯び始めている清沢の疑問
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