オードリー・タンを「絶望の淵」から救った人たち 小3で休学したわが子の変化を見た母の記憶
朱教授には3人の子どもがいて、全員が理数系に秀でたギフテッドだった。彼は国内でとてもたくさんの優れた子どもたちを指導していたから、ギフテッドらが一般の教育体制の中で抱くであろう悩みについて、非常に深い理解があった。
オードリーへの2時間の指導時間の中で、彼は数学以外にも歴史や地理、人生、物理、化学など、あらゆる話をした。指導時間が終わると、いつも10、20冊の本を与えてくれた。さまざまな雑学までをも教えてくれる朱教授は、唐光華が台湾を不在にしていた間、オードリーにとって「教父」とも呼べる存在だった。
楊文貴教授に「仲間が必要になってくる頃だから」と勧められ、オードリーは台湾の児童哲学の草分けとなった《毛毛虫児童哲学敎室》へ通い始めた。李雅卿もその成人クラスへ通い、そこで楊茂秀教授と出会った。楊茂秀教授は全校生徒が60〜70人しかいない「直潭(ちよくたん)小学校」へ行ってみたらどうかとアドバイスし、紹介までしてくれた。
たまたま楊文貴教授の知り合いが直潭小学校で教務主任をしていたことも手伝って、オードリーは幸いにも同校で特別カリキュラムを組んでもらえることになった。直潭小学校の校長も理解を示し、オードリーは4年生から6年生に飛び級させてもらうばかりか、1週間に3日だけ登校してクラスメイトたちとの友情を深めれば良く、ほかの3日間は彼を台湾大学や師範大学、《毛毛虫児童哲学敎室》などへ行かせ、知識学習のニーズを解決してくれることになった。このようなカリキュラムは、後のオードリーの自主学習にも影響を与えたという。
また、楊文貴教授のアドバイスで、中学3年間で習う数学の内容を1年でオードリーに教えてくれたのが、同じ師範大学で当時4年生だった陳俊瑜(チェン・ジュンユー)だった。母親は毎週3日の午後にその授業を受けるようスケジューリングしていたが、彼らはその日やることをすぐに終えてしまうと、トランプゲーム「コントラクトブリッジ」をしたり、パソコンで遊んだり、台北の秋葉原と呼ばれる光華(こうか)商場へ繰り出したり、女の子に夢中になったりと、大学生がすることはすべてし尽くしたという。
「黄金の歳月」
「ついに宗漢の顔に明るい笑顔が見られるようになった」
オードリーは生き返ったように自分を取り戻し、この頃から詩を書くようになった。李雅卿もまた、オードリーが直潭小学校で過ごした1年間は「母子にとって黄金の歳月」だったと振り返っている。
「宗漢はいつも、自分を助けてくれた教師たちのなかで、誰が最も大きな影響を与えたのかは分からないと言っていた。それでも私にははっきりと分かる。1年以上の努力の末に、宗漢は大人の世界への信頼を取り戻し、世界と和解したのだ。
彼はもう自殺しようとはせず、未来への希望で満ちている。宗漢がゆっくりと自分を取り戻していく過程を見ながら、私は教育に対してさらに深い見方をするようになった。自分の子どもがそこで窒息しそうになり、また同じ場所で命を取り戻すのを、私はこの目で見たのだから」
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