中学受験「いい大学へ行くため」の考えが危ない訳 歯止めがきかない中学受験過熱の背景
難関大学の合格者の多くが一部の有名私立中高一貫校出身者で占められてしまうことも問題だが、むしろ私が根本的に問題だと思うのは、このような有名私立中高一貫校の生徒たちの進路に多様性が乏しいことだ。これは日本式エリートの呪縛といえる。
「腐っても東大」「腐っても旧帝大」の悪循環
毎年3月中旬に、東大合格者数ランキングを速報する週刊誌は売れる。東大に対するただならぬ国民感情の表れと見ていいだろう。
明治につくられた日本の学校制度は、全国で唯一の大学であった原初の「東大」に、全国から選りすぐりの秀才を集めるネットワークとして構築された。現在では全国に約700の大学があるが、なかでも東大には特別な感情を抱いてしまうDNAのようなものを私たちがもっているのはそのためだ。
美しい花はほかにもたくさんあるのに、なぜか桜に特別な感情を抱いてしまうのと、どこか似ている。春になるとつい東大合格者数ランキングを見てしまうのは、文字通りの風物詩なのである。
さらにそれを教育行政が実の部分で維持してしまう。大学運営のために国が支出する予算は、国立大学86校に対して年間約1兆1000億円であるのに、私立大学615校に対してはたったの約3000億円だ。国立大学の中でも、いわゆる旧帝国大学と呼ばれる名門大学に配分が偏る。
「腐っても東大」「腐っても旧帝大」と言わんばかりの社会的バイアスが、中高生の進路選択にいまだ強い影響力をもっている。
人生を不幸にする「受験エリートの落とし穴」
“いい学校“を目指すのは人生の選択肢を増やすためだと言うひともいるが、私はあまり賛同できない。
“いい学校“に行けば、たしかに就ける職業の種類が増えたり、就活の書類選考で有利になったりはするかもしれない。しかしそのために努力を重ねて“いい学校”に入ったとすると、それによって増えた選択肢の差分からしか人生を選べなくなることがある。無限にあったはずの人生の選択肢をむしろ減らしてしまう。
私はこれを「受験エリートの落とし穴」と呼ぶ。中学受験だけでなく、地方の高校受験や大学受験でも見られる。選択肢が少ないぶん、地方のほうがシビアな面もある。
この理屈で中学受験を始めると、望みの学校に合格できたとしても、「せっかく□□中学校・高等学校に来たのだから、できれば東大・京大、最低でも早慶くらいには進学しなければ」という呪縛に囚われる。
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