5歳からの義務教育におわす文科省構想への懸念 海外の義務教育早期化と日本の決定的な違い
だから、「カリキュラムを用意する」というのなら、1人ひとりの経験を大事にしながら、いろいろと子どもの様子を見ながら、「だとしたら次の日はこういうことをやったら、この子の学びがうまくつながっていくんじゃないか」と考えることなんですね。
これが「経験カリキュラム」なんですが、そう考えると、全員が同じカリキュラムになるわけがないんです。これが大事なのは、一斉カリキュラムで新しい情報を同じように脳に取り込んでも、脳にすでにある知識だとか経験だとか意欲や関心は1億人いたら1億通りあって、そこで学ぶ「意味」はそれぞれに違うからです。
おおた:汐見さんの近著『教えから学びへ』では、社会共通の情報としての「語義(meaning、ミーニング)」と、そこに個々人の経験が合わさって形成される「意味(sense、センス)」を区別されていましたよね。
汐見:そうです。子どもたちはミーニングだけを取り入れているわけじゃないんです。だから子ども1人ひとりの学びの履歴はそれぞれ違うんだけど、多様な経験をしていけば、結局はだいたい似たようなものは身につくんですよね。でも一般的には学校はミーニングを取り入れる場所だと思われているということが、あの萩生田さんの会見ではわかりますよね。
長い目で見れば差はなくなっていく
おおた:ひとによって順番が違うだけで、長い目で見れば差はなくなっていく。
汐見:あの「同じ学び」を、全員が同じ順番で同じことを学ぶというような意味でとらえたとしたら、形式的な幼児教育が始まる可能性が出てきますね。
おおた:そして教育産業にとっては新しい商売の種になりますね。
汐見:「これは幼稚園も保育園も子ども園も共通の、『同じ学び』のための教材だ」なんてなるんですかね。平成元(1989)年の幼稚園教育要領以降、幼児教育の現場では、せっかく1人ひとりの経験的カリキュラムを大事にしてきたのに、それがまた弱まってしまって、一部に一斉カリキュラムが復活してくることを、僕はちょっと心配しています。
センスの教育という意味では幼児教育のほうが歴史はあるのに、またここでミーニングだけのカリキュラムになってしまったら、個性的な子はますますつらくなってしまうんです。
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