ソニーがやめたAIBOと復活したaiboの決定的な差 経営陣が描くストーリーにハマるかどうかがカギ
事業責任者だった大槻正氏は、「もし1000体しか売れなかったらプロジェクトを解散します。3000体しか売れなかったら売れなかった理由を分析します。もし5000体売れたなら私たちのビジネスプランのままやらせてください」と役員を前に宣言します。AIBOの生みの親でもある土井氏も、ハードウェア事業に猛反対していた出井会長を直接説得しました。
1999年6月1日、とうとう前例のないAIBOというイノベーティブな商品がこうして世の中に送り出されたのでした。
「ソニーショック」の余波を受け規模縮小
1999年6月1日朝9時、AIBOの販売サイトがオープンになりました。そして、完売までなんとわずか17分。社内の不安をよそに、最初の5000体のAIBOはあっという間に売り切れてしまったのです。
さらに1万体の追加販売をした11月分の申込者は13万人に達し、「電話がつながらない」という苦情が殺到するほどの大きな反響を得ました。それを受けて、ソニーは2000年春から月産1万体の量産に踏み切る、という決定を下します。AIBOが事業として軌道に乗った瞬間でした。
AIBOはその後も順調に販売台数を積み重ね、1年半の間に4万5000体の販売実績を作ります。そして2000年11月には、AIBOの第2世代の受注を開始。デザインコンセプトを初代の子犬から尻尾と耳のデザインを変更して「ライオンの子」に変え、音声認識機能や写真撮影機能、名前登録機能など新たな機能を盛り込みます。価格は15万円と値下げし、販売数量の拡大を目指しました。
この第2世代のAIBOでは、規格を公開することにより、サードパーティのメーカーの参画を促し、ロボット市場におけるプラットフォームに育てることを目指しました。
しかし、発売開始当初の盛り上がりとは裏腹に、その後市場は思った以上には伸びず、徐々に手詰まり感が漂い始めます。ソニーは機能の追加やデザインの変更など改良を続けるものの、AIBO発売から4年の2003年時点で販売台数が十数万台と、初期の期待値に反して苦戦を続けるのです。
そのような中、2003年4月にソニーに大きな衝撃が訪れます。その年度の連結営業利益が予想より1000億円下回る見通しが明らかになり、ソニー株は売り一色に。株価は最終的にストップ安の3220円まで急落します。世に言う「ソニーショック」です。経営危機が囁かれ、出井会長はリストラ策として事業の取捨選択に舵を切ります。
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