アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記 残虐非道な強制収容所で心の支えとなった友情
仕事場への往復中につまずいて転んだら、その場で撃ち殺され、ほかの被収容者がその遺体を抱えて収容所まで運ばなければならなくなる。ところがすぐに、みんな遺体を抱えられないほど体が弱り、長いぼろ布を持ち歩くようになった。それを担架がわりにして運ぶのだ。遺体を運べなければ、ナチスはわたしたちも殺す。ただし、その場では殺さない。収容所に全員がもどるまで待ってからみんなの前で撃ち殺して、見せしめにするのだ。働けなくなれば用はなくなり、殺される。
アウシュヴィッツではぼろ布は黄金と同じくらい、いやおそらく、それ以上に貴重だった。黄金があってもたいしたことはできないが、ぼろ布があれば傷口をしばったり、服の下に詰めて暖かくしたり、少し体をきれいにしたりできる。わたしはぼろ布を使って靴下をつくり、硬い木の靴を少しだけはきやすくした。3日ごとに前後を逆にし、とがった部分が足の裏の同じところに当たらないようにした。そんなちょっとしたことで、生きのびられたのだ。
最初の仕事は、爆撃で破壊された弾薬庫の跡地の片付けだった。アウシュヴィッツからそう遠くないところに、前線に送られる弾薬や兵器の供給基地になっている村があった。わたしたちはその場所まで行進させられ、素手で爆発した弾薬の破片を拾った。きつくて危険な作業だった。
親友の存在が支えになった
とてもつらかった。いっしょに仕事をしているユダヤ人には、ドイツ人のわたしを信用してもらえず、しだいに自分の殻に閉じこもることを覚えた。ただ、親友のクルトだけは別だった。わたしの両親は亡くなり、妹が選別で生き残ったかどうかもわからない。昔の生活と幸せだった時期を思い出させてくれるものは、クルト以外になかった。
はっきり言って、当時のわたしにとってクルトとの友情ほど大切なものはなかった。彼がいなければ、両親が殺されたあと、絶望に負けていただろう。バラックは別だったが、1日の終わりには必ず会い、いっしょに歩いて、話をした。ささいなことだが、それだけでわたしは十分生きていけた。わたしを大事に思ってくれるだれか、わたしが大事に思っているだれかが、この世にいるとわかっているだけでよかった。
クルトと同じ仕事が割り当てられることはなかった。政府は詳細な記録をもっていて、ドイツ全土のユダヤ人の住所や職業を知りつくしていた。これが彼らを恐ろしいほど有能な殺人者にした理由のひとつだ。
しかしクルトは運がよかった。彼に関する情報はアウシュヴィッツになかった。クルトはドイツとポーランドの国境にある町の出身で、ナチスはその町の記録をもっていなかったのだ。職業をきかれたクルトは「靴職人です」と答え、収容所内の工房で腕のいい靴職人として働いていた。彼は屋内で仕事をしていて、わたしやほかの被収容者のように雨や雪のなかを歩いて工場まで行かなくてよかった。