アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記 残虐非道な強制収容所で心の支えとなった友情
わたしたちは腹をすかせ、足に水ぶくれをつくって帰ってきたが、彼は安全な場所で、雨や雪にも降られず、食事もわたしたちより多かった。被収容者に残飯が回ってくるときはいつも、まず仕立屋や靴職人や大工など、収容所内で働く人たちに回された。わたしが働いていた工場は、帰る前に食事をくれることになっていたが、十分な量が出たことはなかったし、収容所にもどってもなにもないことがよくあった。
そういう意味でクルトは恵まれていたので、余った分を少しとっておいて、よくわたしに分けてくれたものだ。わたしたちは互いのことを気づかうことができた。これが本当の友情だ。
ある日、穴が開いた大きな鍋が捨てられているのをみつけた。わたしはいいことを思いつき、その穴をふさいで持ち帰り、何人かの被収容者の医師に声をかけた。アウシュヴィッツにはたくさんの医師がいた。おそらく、収容されているドイツの中流階級のユダヤ人のうち、10人に2人は何科かの医師だったと思う。
クルトがいなかったら今、私はここにいない
彼らは毎朝、バスでいろんな病院に連れていかれ、仕事をしていた。時には、戦場からもどったドイツ人負傷兵の手当てのため前線に送られることもあり、そうなると何日も帰ってこなかった。彼らは毎日、日当の代わりにジャガイモをもらっていた。1日の仕事の報酬が生のジャガイモ4つだ。しかし生のジャガイモは毒なので食べられない。
だから、彼らはわたしのところにきた! わたしは4つのジャガイモをゆでる代わりに、ひとつもらうことにした。これでクルトと分けられる食料が少し手に入る。夕方になると、ポケットにジャガイモを入れてクルトのところに行き、夕食に2つか3つのジャガイモを分け合った。ある晩、乱暴で有名な親衛隊員とすれ違った。
彼はいきなりわたしの尻を蹴飛ばそうとしたが、わたしが身をかわしたため、ポケットに詰めこんだジャガイモを蹴飛ばした。わたしはけがをしたふりをして、足を引きずりながら逃げた。そうしないと、もう一発くらわされる。わたしはクルトにこう言った。「悪い、今日の夕飯はマッシュポテトだ!」。
まちがいなく言えるのは、クルトがいなかったら、いまわたしはここにいないということだ。彼という友人のおかげで、生きのびることができた。わたしたちはお互いの面倒をみた。どちらかがけがをしたり、具合が悪くなったりすると、もうひとりが食べ物を手に入れて助けた。お互いが生きる支えだった。