「金持ちを目指す人生」をキリストが否定した理由 人生の新しい視点はキリスト教が教えてくれた
いまの世の中では、大人はみんな、お金を稼ぐことに一生懸命になっています。また大人たちは、もっとお金持ちになれば、もっと幸せになれると信じています。しかしイエスは、お金儲けをとても嫌っていました。
イエスが、エルサレム(キリスト教・ユダヤ教の聖地)にある神殿に入ったとき、売り買いをしていた商売人を追いはらい、両替人のテーブルや、鳩を売る人の腰掛けを倒してしまいます。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイによる福音書)
「こう書いてある」というのは、「ユダヤ教徒が守るべき教えには、こう書いてある」ということです。「わたしの家」というのは、エルサレムの神殿のことを指します。そこは祈りを捧げるところであって、商売をするところではありません。
そして、イエスは商売をしている人たちを、はっきりと「強盗」と言っています。商売でお金を稼ぐことの基本は、原価(商品を仕入れた値段)よりも、高い値段でそれを売ることです。本来の価値よりも高い値段をつけて、その利ザヤを稼ぐ行為が「商売」です。
ところがイエスからしたら、それは「強盗」のような行為なのです。この考え方は、いまのわたしたちの社会の価値観とはまったく違いますよね。現代の社会は、商売を自由に行い、お金とモノ(商品やサービス)を流通させることで成り立っています。こうした社会を専門的な言葉で、「資本主義社会」と言います。
生き方や、正解は決してひとつではない
資本主義社会は、商売をして、お金を少しでも多く稼ぐことが、奨励される社会です。それが、社会全体を豊かにすると信じられています。だから勉強して、良い大学へ行き、稼ぎのいい会社に入る。こうした考え方も、この社会では良しとされることです。
ところがイエスの立場から見れば、それは決して正しい社会ではない。利益を稼ぐことだけを目的とした商売やビジネスは、イエスにとっては、強盗と同じだからです。
このようにキリスト教の考え方は、現代に生きるわたしたちの考え方と、まったく違う視点のものがたくさんあります。わたしたちが、絶対正しいとか、これが当たり前だとか、これが常識だと考えていることが、キリスト教に触れると、必ずしもそうでもないことに気づかされます。この気づきを得ることで、人生に対する見方も変わってくるのです。
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