「マウンティング中毒」から抜け出せない根本理由 エゴは「自分が何者か」をわからなくしてしまう
人生という劇場では、自動的にいい席をゲットできて当然などという人間は1人もいない。舞台に近い席がほしければ、チケットの発売前日から何時間も並ぶとか、それなりの金額を支払うとか、優待席をねらって劇場のサポート会員になるといった努力が必要だ。
その努力をしないなら、大半の人間のように、良席が手に入りますようにとひたすら願うしかない。ところが、もしきみに無条件の「特権意識」があるとしたら、ほかの観客より自分は特別と思うのはなぜなのか、よく考えてみるべきだ。傲慢な者は尊敬の念をほしがるが、謙虚に働く者は自然に尊敬の念を抱かせる。
どうしたらエゴを抑えられるのか
僕がよく思うのは、いったいどうすれば、すべての人間がお互いを世界市民だと思えるか、ということだ。アメリカの広告協議会が展開する「愛にラベルはない」というキャンペーンの一環で、僕は何本か動画を撮影したことがある。
フロリダ州オーランドに行って、ナイトクラブ「パルス」の乱射事件〔訳注:2016年6月、オーランドのゲイナイトクラブで起きた銃乱射事件。死者は犯人(男性)を含む50人。同性愛者への嫌悪が動機とされる〕のその後を人々に尋ねたり、悲劇を乗り越えるためのコミュニティーの動きを聞いたりした。
僕が会ったテリ・スティード・ピアース牧師は、パルスの近くに教会を構え、信徒に多くのLGBTQ+(性的マイノリティー)を抱えている。
一方、ジョエル・ハンター牧師は、おもに白人の異性愛者を信徒にもつ。悲劇の後、2人はともに働き、友人になった。
「こうしてわたしたちが会話を交わしているだけで、勇気づけられる人がいるはずです」とピアース牧師が言うと、ハンター牧師が続ける。「それこそが未来を変えるための基本ですから」。
ピアース牧師が言うように、2人は「世界を変えようと志を同じくする人間同士」にほかならない。彼らの見事な友情を見ていると、こんな疑問が生まれてくる。なぜ僕らは、悲劇を経なければ、団結できないのだろうか?
エゴの力で、僕らは自分や自分の「同類」ばかりを尊ぶ道を歩まされてきた。ある日突然、ブルドーザーになぎ倒されない限り、その同じ道を歩み続けるのはなぜだろう。どんな相手であっても平等に見なすことができれば、エゴを抑えられるはずだ。
誰かの地位や価値が自分より劣っていると感じたら、自分を振り返ろう。そんなふうに感じなければならないほど、自分のエゴが脅かされているのはなぜなのか。そう考えることが、あらゆる人を等しく敬い、尊重するモンク・マインドの基本姿勢だからだ。
(翻訳:浦谷計子)
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