東京五輪を仏メディアが「意義深い」と評価した訳 「競技場外で想定外の問題提起があった」と指摘
また『マダム・フィガロ』誌は、五輪のスケートボードで13歳ながら金メダルを獲った西矢椛のユニフォームに着目し、「国際五輪委員会(IOC)が東京五輪にスケートボード種目を加えたことは、オリンピックのイメージの現代化で観客を活性化させることに貢献した」と指摘した。
男子選手同様、Tシャツとゆったりとしたパンツをはいた西矢椛選手やブラジルのレイサ・リール選手は新風を巻き起こした。その意味でユニフォーム規定に問題提起した意義もあった。
1984年のロサンゼルス五輪で商業化に舵を切った五輪は、アスリートを見世物扱いするようになったのは事実で、テレビの視聴率、スポンサー獲得のためにユニフォームもスポーツとは相いれない方向にエスカレートし、アスリートもスポーツ協会もアメリカが牽引するコマーシャリズムに流れたことは確かといえる。
アスリートの人権が守られていない現状
実は、アスリートたちの「見世物的な要素」のルーツをたどると単に商業主義だけでないものも見えてくる。それはローマの時代から奴隷たちをコロッセオで競わせ、民衆が狂喜して観戦するという欧州の伝統からのものでもある。スポーツもエンターテインメントだとすれば、見世物的要素は排除できないが、アスリートの人間性は軽視されがちだ。大坂なおみ選手が傷ついたとされる記者会見で、ジャーナリストたちが無神経に選手の心を傷つける残酷な質問をするのも見世物扱いしているからともいえる。
五輪は4年に1回、世界最高レベルの選手が自国の国旗を背負ってメダル獲得を争うエキサイティングなイベントであり、それを見たい人々によって巨額のお金も動いている。そうした見世物的要素からすれば、アスリートの人権は守られていない現状もある。
そうした問題に対して、東京五輪でアスリートたちが具体的な行動に出たこと、とくにバイルズ選手のように競技を棄権するという判断は、アスリートは見世物の“芸人”ではないと示した画期的行動だったともいえる。
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