「感動」の裏で忘れられた「コンパクト」東京五輪 5000人対象の調査からわかった日本人の期待
アスリートの活躍に引き寄せられる人々は、意識せずともコストと引き換えにプロスポーツを観戦する。そのスポーツの魅力がなくなっていくと、ファンは減少していき市場は縮小しスポンサー企業は離れていく。需要と供給、コストと便益の比較によって、自由な意思決定のもとでプロスポーツは存在する。市場経済では「希望や勇気、感動」は、誰に押し付けられるものでもない。
オリンピックの経済効果を検証した経済研究は数多く存在する。大半の分析では過剰投資のため長期的には経済にマイナス効果をもたらすことが示されている。例えば、1998年に開催された長野オリンピック開催は多額の負債を残した。これを返済するために10年以上もかかった(※2)。
大会組織委員会参与の夏野剛氏は無観客開催を求める世論について、「クソなピアノの発表会なんかどうでもいいでしょ、オリンピックに比べれば。一緒にするアホな国民感情に今年選挙があるから乗らざるをえない」と述べた。散見される「国民間違い」説を平易に簡潔に表現している。確かに商業的な価値からすればそのとおりである。
しかし、オリンピックは単なる商業的メガイベントではない。規模が大きすぎて、私企業が単体で開催することは不可能なのだ。そこで、予算は税金から強制的に徴収される。スポーツに関心がない人も、金を払わされるのである。だからこそスポーツの「感動」以外に、オリンピックに正当性を持たせる理念が重要である。
日本人が東京オリンピックに求めていたもの
実際に人々は東京オリンピックに何を求めていたのだろうか? 筆者はこの問について、2016年に独自に収集した約5000人のアンケート調査のデータを用いて検証した。まず下記の意見への賛否をきいた。
「東京オリンピックへの支出を極力小さくすべきである」
結果は66%が賛成であり、特に大賛成が36%に達する。一方、反対はわずか6%にすぎない。東京オリンピック招致時の「金のかからないオリンピック」は、民意を反映したものであったのだ。アンケートでは別に下記の3つの質問をしている(回答の選択肢は5段階)。
「政府は災害対策を強化すべきである」
「政府は女性が働く環境において十分に能力を発揮し、活躍できる社会を作るべきである」
「政府は環境問題への対策に力を入れるべきである」
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