無観客提言の分科会委員語る「五輪中止の現実味」 感染症の専門家として訴えたいことの本質

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入国した後も、選手の厳重なチェックは必要とされる一方で、これから迎える東京オリンピックは「提言書」にあるとおり、無観客にこだわるべきなのか。無観客を支持する声は、大会が近づくにつれて大きくなってきている。

おかべ・のぶひこ/1971年東京慈恵会医科大学卒業。1978~1980年アメリカ・テネシー州バンダービルト大学小児科感染症研究室研究員。1991年世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局(フィリピン・マニラ市)伝染性疾患予防対策課課長、1995年慈恵医大小児科助教授(現在同客員教授)、1997年国立感染症研究所感染症情報センター・室長、2000年同センター長、2013年から川崎市健康安全研究所所長

「有志の間では、オリンピックそのものを中止にするかしないかについても議論はしている。しかし『提言書』としてまとめる段階では、菅首相がG7でやると言っていた。

僕は協議会(内閣府「東京オリンピック・パラリンピック競技大会における新型コロナウイルス感染症対策調整会議」)にアドバイザーとして呼ばれたときに、『あ、国の大方針としてやる決断をした』と理解した。

G7では日本として“やる”という確認を海外に示したような形で、ほかの国もそうだそうだ、やってくれやってくれ、となっている。そこで国際間のコミットメント(約束)ができたのではないでしょうか。

そこで提言を出す以上は、実行性のあることを述べないと絵に描いた餅にすぎなくなってしまう。さっき(前編参照)も言ったように、感染症を少なくしようとするときには、何もやらないのがいちばんいい。オリンピックもないほうがいい。

しかしやるのであれば、できるだけリスクを低くする方法はないか。感染拡大リスクが最も低いのは無観客であり、それが望ましいとした。次にそれを膨らましていくのであれば、できるだけ規模を絞ってほしい、と言っている。フルスケールのオリンピックはこの状況は無理です、という意味でもある。感染症は人から人へうつるんだから、リスクになる人のかたまりをなるだけ小さくしたほうが感染のリスクは低い。

観客ありでもクラスターは起きていないがリスクはある

スポーツイベントは観客ありもあれば、観客を制限しているところもあれば、無観客のところもある。観客があるからクラスターのもとになっているかというと、実際にプロ野球でも、Jリーグでもクラスターは起きていない、というのも事実。主催者としてやっている人たちは、観客がいても注意をする、よびかけることで感染拡大は“起きていない”と言っている。それも事実。

それでもリスクはある。僕らはリスクを話しているわけで、リスクを低くするなら多人数ではないほうがいい。理想的にゼロ、となる。

そうなると、やっぱりオリンピックの“コア(中核)”の議論なんですよ。競技をやる、記録を作り、1番を決める、というオリンピックのコアならできる。僕は無観客という言葉はこれまでに使っていなかったけれども、僕のいうコアは結果的には無観客になるわけですよね。観客が見る、観客に見てもらうことが目的ではなくコアの部分をやるというのが明確な目的となれば、オリンピックは実現が可能になる。

スポーツを見て、それが華やかなものだと思い、まねをしたいし、競技をみることで『自分たちも!』と思うし、応援もする。あるいはナショナリズムもでてくる。

でも、それは競技を行うことの結果として膨らむもので、人が集まっただけではそうはならない。コアがないとならない。コアがますます大事なコアにぎゅっと集約して充実するには、周りに膨らみがあったほうが、それはよりいい。楽しみも膨らむし、選手もやりがいは当然出てくる。

だから選手の中にも、観客がいない大会に俺は行かない、という人も出てくる。僕はそれには、どうぞ辞退してください、と言いたい。“見せる”ことが目的ならそれはそれでオリンピックでのトップ候補から外れていればいいじゃない、という考えです」

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