韓国の民主化「栄光の6月」を台湾の学生が学ぶ 1987年以降の民主化の過程をともにする韓国と台湾
日増しに高潮していく反政府運動に、軍の投入がささやかれ始めた1987年6月20日。国民運動本部は4.13護憲措置の撤回やこれまで拘束された思想・政治犯の釈放、集会・デモ・言論の自由の保障、催涙弾使用の禁止という4項目を要求する。それでも全斗煥政権は認めず権力に固執し、結果、国民運動本部は6月26日に平和大行進を敢行した。 全国33都市240カ所、20万人以上を集めた国民の抗議活動に対し、全斗煥政権は武力で鎮圧しようとした。しかしこのとき、アメリカのレーガン大統領が「1980年の光州事件のように、軍は絶対に投入してはならない」と韓国政府に警告していた。さらに1988年の開催を控えたソウル五輪について国際オリンピック委員会(IOC)が「このような動乱が続けば、開催都市の変更もありうる」と韓国政府に通告した。ようやく事態の深刻さを痛感した全斗煥政権と与党・民主正義党は、大統領直接選挙を認めた「6.29宣言」の発表へと追い込まれた。
大統領直選制は達成したが軍人の政治が続いた
いったん民主化闘争の目的は達成された。しかし李館長は「これは目標達成ではなかったのです」と打ち明ける。「6.29宣言を受けて行われた1987年12月の大統領選挙では、6.29宣言を出し、全斗煥と同じ軍人の盧泰愚(ノ・テウ)が大統領に当選してしまった。国民が直接選べる選挙だったけれども、軍人出身の政権が続いてしまったのです」。
韓国の民主化は学生運動が主導したが、台湾では学生が運動を起こすには状況が厳しかった。「学内に国民党や政府のスパイが多く存在し、反政府的な声を上げづらかった」と朱教授は説明する。
台湾の学生運動といえば、2014年に中国との貿易協定の中身があまりにも中国寄りだとして大学生たちが声を上げ、立法院(国会)を占拠した「ひまわり学生運動」が記憶に新しい。台湾で学生たちによる反政府運動は、1990年の「野百合学生運動」が嚆矢となる。
李登輝が総統となり、徐々に民主化を進めようとしたが、そのスピードが遅いことに学生たち約6000人が反発し、台北市の中正紀念堂に座り込んだ。蒋介石・蒋経国時代の遺物と言える「万年国会の解散」「大陸との戦時状態(臨時条款)の廃止」「政治経済改革のタイムテーブルの発表」などを要求し、座り込みは1週間続いた。
この運動は学生代表らが李登輝総統と直接面会し、民主化への動きを約束したことで収束する。これ以降、台湾の学生たちは政治に対し自由に発言し、異議を唱え、運動を行うことへの下地となった。
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