韓国の民主化「栄光の6月」を台湾の学生が学ぶ 1987年以降の民主化の過程をともにする韓国と台湾
1987年7月の戒厳令解除や李登輝総統が着実に進めていった民主化の過程をみて、台湾の民主化は「上からの改革により民主化が進んだ」と考えられがちだ。しかし朱教授は、これを強く否定する。「韓国ほど強く、大規模な市民運動は確かに少ないが、民主化を求めて声を上げたのはまさしく市民なのだ」と説明する。
1975年に蒋介石が死去し、1977年に初めて地方の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。台湾北部・桃園県中壢市で不正選挙が行われ1万人の市民が集まって警察署を包囲し抗議活動を行った。また1979年には台湾南部の大都市・高雄市で「美麗島事件」が起きる。政治雑誌『美麗島』が主催し、世界人権デーに合わせて「人権大会」を開きデモ行進を行ったが、「集会は認めない」とする当局と衝突、100人以上が負傷した。
戒厳令の下、ねばり強く続いた台湾の運動
当時、この人権大会の主催者らは軍法会議にかけられた。彼らの中には元副総統の呂秀蓮や、高雄市長や総統府秘書室長(日本の官房長官のような役割)を務め、現在は監察院院長の陳菊らなど、後に民主進歩党(民進党)設立に関わり、1990年代以降の台湾政治の主役となっていく人物だった。
さらに1986年には「反デュポン」事件が起きた。1985年にアメリカ・デュポン社が台湾に二酸化チタン工場の建設計画を立て、これが承認された。ところが、建設予定地となった台湾北西部・鹿港(ルーカン)地区の住民が「環境に大きな被害を与える」として大反発した事件だ。
これは「反公害運動」へと発展し、また戒厳令が解除されていない中での大規模な反政府運動となった。違法なデモだったが、政府はこれに妥協したのだ。台湾は今でも原発廃止をはじめ環境運動が盛んだが、そんな運動の原点となった事件だ。このように、「台湾にはねばり強く政府に対する反対運動の軌跡がある。台湾の民主化はけっして上からの改革ではないのだ」と朱教授はいう。
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