強制着陸で逮捕されたベラルーシ活動家の「命運」 ロシア人交際相手と休暇を楽しんだ後捕まった

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プロタセビッチはスティスパン・プツィラと共同で秘匿性の高いメッセージアプリ「テレグラム」上に反体制メディアのチャンネル「ネクスタ」を立ち上げ、昨年これを用いて反政府デモを呼びかけた。プツィラは、プロタセビッチがギリシャに出発する前、考えられる危険について話をしたという。

プツィラによれば、2人の認識は一致していた。ベラルーシ、ロシアおよびルカシェンコと協力関係にある国の上空を飛ぶ便は避けるべきだが、欧州連合(EU)加盟国同士のリトアニアとギリシャを結ぶ便なら問題ないだろう——。

プツィラは、23日午前にプロタセビッチがアテネで搭乗したライアンエアーのフライトがベラルーシ西端の上空を飛行する点には気づいていなかった可能性があると付け加えた。ルカシェンコはこのような飛行ルートにつけ込んで、ヨーロッパ各国首脳が「国家ぐるみのハイジャック」と非難する行動に打って出たのである。

怯えて生きることを拒んでいた

プロタセビッチはアテネの空港で異変に気づいた。ベラルーシの治安当局者とみられる男が、チェックインカウンターでプロタセビッチ、そしてプロタセビッチの渡航書類の写真を撮影しようとしていたからだ。

だが、プロタセビッチはおじけづいて逃げ出すような男ではない、とネクスタのオフィスで取材に応じたプツィラは話した。プロタセビッチはこのネクスタでルカシェンコに対して最も手ごわく、かつ強硬な批判者としての地位を確立した。

「性格からして、ロマンはどんなときだって決意を貫くタイプだ」とプツィラは言う。「彼はおびえて生きることを拒んでいた」。

だが、ルカシェンコが1994年に大統領になって以降、そうした生き方は極めて危険なものになった。

プロタセビッチがルカシェンコの圧政に対する抵抗を始めたのは16歳のとき。「へどが出る」ほど残忍な統治を直接目にしたことがきっかけだったという。これを境にミンスクの理系高校で優等生だったプロタセビッチの人生は一変、2005年にアメリカの国務長官(当時)コンドリーザ・ライスが「ヨーロッパ最後の真の独裁国家」と呼んだベラルーシ政府と公然と敵対するようになっていく。

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