ケインズ「一般理論」が今でも実用性の高い理由 池上彰×山形浩生「教養としての経済学」対談
山形浩生(以下、山形):ありがとうございます。ケインズには「お前らわかってないだろう、こんな教養はないだろう」という感覚がありますね。ああいう意地悪はやめればいいと思うんですが、昔の教養人はそういうものなんですよね。
池上:教養人はマウンティングするんですよね。これは知らないだろう、俺はこれを読んでるんだとさりげなく出して、知識をひけらかす。それが読みづらさになってもいます。しかし、やはり、ハーヴェイ・ロード[編集部注:ケインズが住んでいたケンブリッジの地名。知識階級が多く居住する地域]の教養人の中で会話していると、ああなってしまうものなんですね。
私の学生時代にもそういう傾向はありましたよ。学校では、当然このぐらいは読んでるよねという前提で話していて、知的虚栄心から知ったかぶりをしているんですが、家に帰って慌てて本屋へ行く(笑)。当時の知識人も同じだったんでしょうね。
マルクスも『資本論』には当時のいろんな学説への批判が出てきますが、わざわざペダンチックに、自分の教養をひけらかしながら書いています。嫌味なやつだなあ、なにが労働者のための本だと思ったほどですよ。それもケインズと同じだったわけですね。
原書に触れない現代人の誤解
山形:とっつきにくさから、みんなあまり原書にはふれていませんよね。いま、シュンペーターの『経済発展の理論』の翻訳も進めているんです。イノベーションの理論が書かれているものです。
池上:「創造的破壊」の理論ですか。
山形:そう思われがちなのですが、実は「創造的破壊」という言葉は登場しないんです。それはもっと後の時代の本なんですね。
池上:そうでしたか。原書を知るというのは面白いですね。例えば、アダム・スミスの『国富論』には「見えざる手」という言葉はたった1回しか出てきません。それも「“神の”見えざる手」なんて書かれてはいないんですよね。
山形:そうなんです。いかに原書にふれていないかがよくわかります。