「DV=身体的暴力」と思う人は絶対知るべき事実 言葉や経済的制裁、脅し、監視などの行為も該当

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非対称性は権力と言い換えることができ、強いものから弱いものへと行使される。中でも、DVは加害者のほとんどが男性であることから、市民社会における性犯罪と酷似している。

すでに述べたように、暴力という定義は被害者の立場に立つというポジショナリティ(立場性)を前提としている。そして、基本的に被害者はイノセントであり責任がなく、擁護されるべきであり、結果として正義となる。中立的立場が公正であるならば、暴力と定義された関係において、被害者の立場に立つことが中立となる。彼らの行為を暴力と名づけたとたん、中立的立場は被害者の立場へと擦り寄っていくことになる。しつけが厳しすぎた親から虐待する親へと定義が変化することで、中立点は弱者寄りになるのだ。

しかし、この変化は、同時に権力という政治的(ポリティカル)な言葉が内包していた力関係が脱色されることを意味している。市民社会の法による正義の判断へと軸足が移ることで、例えば被害者の絶対的正義の主張、加害者を悪とする二極対立が発生する危険性も無視できない。臨床心理的援助の世界においても、近年では「被害者支援」が1つの大きな活動の柱になっていることは、その表れだろう。加害・被害の軸は力関係によって容易に転換しうるし、その関係性を脱構築することも可能である。

二極対立の回避には動的でポリティカルな視点が必要

加害・被害の硬直化した二極対立を避けるためには、動的でポリティカルな視点をもち、被害者性の強調が時には一種の権力を帯びることに十分自覚的であることが必要だ。DVの被害者である妻が子どもを虐待する加害者となるように、家族における暴力の連鎖は権力による抑圧委譲としてとらえることができる。

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一方で、常識的な家族観によれば、家族は権力や暴力とは無縁な愛情共同体だ。虐待やDVの起きる家族は異常であるとされ、ふつうの家族と切断される。そこには加害・被害の関係性は存在しないのだ。

暴力をめぐる2つの家族観の対立は、児童虐待ではさほど大きくはない。被害者が無力でイノセントな子どもであることで、ヒューマニズムの正義と被害者の立場に立つ正義とが幸運な合体を果たすことができるからだ。

DVは被害者が成人の女性であり、自己選択・自己判断の能力をもっていること、さらに加害者と被害者のあいだには性的関係が結ばれていることから、ドミナントな家族観からは彼女たちのイノセントは保障されない。DVをテーマにした講演を行うと、「妻だって夫を殴っている」「妻が生意気だからじゃないか」といった批判や揶揄が必ず聴衆から寄せられるのもそのせいだろう。

DVを扱う際に、中立を超えて被害者の立場に立つことは、しばしば覚悟を要することになる。児童虐待のように正義が保障されてはおらず、従来の家族観と正面から対抗することを意味するからである。

信田 さよ子 公認心理師・臨床心理士

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のぶた さよこ / Sayoko Nobuta

1946年岐阜県生まれ。原宿カウンセリングセンター所長。お茶の水女子大学文教育学部哲学科卒業、同大学大学院修士課程家政学研究科児童学専攻修了。駒木野病院勤務を経て、1995年に原宿カウンセリングセンター設立。日本公認心理師協会理事、日本臨床心理士会理事などをつとめる。アルコール依存症、摂食障害、DV、子どもの虐待をはじめ、親子・夫婦関係、アディクション(嗜癖)に悩む人たちやその家族、暴力やハラスメントの加害者、被害者へのカウンセリングを行っている。著書多数。

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