「DV=身体的暴力」と思う人は絶対知るべき事実 言葉や経済的制裁、脅し、監視などの行為も該当
21世紀を迎え、援助者が性虐待・DVの存在を否定することはほとんどなくなった。しかし、一般的にはいまだに性虐待は近親相姦と呼ばれ、DVは殴る蹴るの残虐行為だと考えられている。近親相姦は、相の字が相互性を表すため、加害・被害の非対称的関係を隠蔽する。そのため、われわれはかなり前からこの表現の使用をやめて、「近親姦」と呼んでいる。
DVに至っては、身体的暴力はDV全体のごく一部にすぎないことが、ドゥルースプログラム(配偶者に暴力をふるう男性が暴力をやめられるように教育する方法)の「権力と支配の車輪」図においても示されている。殴る蹴るという身体的暴力、性行為を強要する性的暴力以外に、数々の言葉や経済的制裁、脅しや監視といった行為がDVの本体なのである。
このような「誤解」を単なる無知と批判することはできない。「誤解」とは、現実のドミナント(支配的)な視点(=常識)そのものである。被害者を救い、支援するための知識・知見と常識(ドミナントな視点)は、正反対なのだ。
父が娘の体を触ることは娘も喜んでおり、合意のうえのことなのだ。骨が折れるほど殴らなければ、時々大声で怒鳴ることなどDVとは呼ばない。われわれ援助者からすれば、社会の常識は「誤解」そのものなのである。
「誤解」を信じないと生きられなかった
被害者と呼ばれるべき女性たちは、そんな「誤解」を信じなければ生きて来られなかったのだ。あしざまに夫から「バカ、ブス」とののしられても、殴られるわけではないから(しかも「手を上げるわけじゃないから」と婉曲に表現される)DVではない、生活費を定額しか渡されず、給与総額を教えてもらえなくても、殴らないので夫はDVを行ってはいないと、日々自分に言い聞かせて納得させる。性虐待に至っては、ほとんど記憶の片隅に押し込められており、意識されることすらない。
ところが、何かのきっかけで彼女たちはそれが「誤解」であったことを知る。自分の経験が性虐待やDVと名づけられることだったのだと知る。そのときの衝撃は、淡いブルーから灰色への変化どころではない。まさに、世界が180度回転したかのような変化であろう。足元が崩れるような感覚に耐えながら、彼女たちは「知らなきゃよかった」とつぶやくのである。
しかし、もう知らなかったときに戻ることはできない。「誤解」と知ってしまったのだ。いつの日か、知ってよかったと心から思えるときがくる、と信じなければ生きていくこともできないだろう。「知ってよかった」と彼女(彼)たちが思える一助となるために、この文章を書いている。
他者の身体に合法的に接触できる職業はそれほど多くはない。代表は医療である。生命を維持するという生存目的のために、接触どころか身体を切り刻み、内臓を摘出することすら正当化される。その他、看護、介護、理学療法、鍼灸、理美容などが挙げられるが、いずれも国家資格の取得が求められている。フィジカルな接触を生業とするためには、国家による管理が必要になるのだ。身体接触は、生存のためにという大義を失うと、時として生命危機に至らせる可能性もあるからだろう。
一般的にカウンセリング(心理的援助)は、身体よりも心理・精神的な問題を対象とすると考えられている。しかし、私のような開業心理相談はもっと幅広く家族などの「関係」を対象としている。カウンセリングには、大きく分けて、集団でかかわるグループカウンセリングと個人カウンセリングの2つの形態があるが、一般的には後者が基本とされ、密室で一対一の関係を形成することから始まる。
カウンセラーは、心理学や臨床心理学の学問的知見とそれに基づいた専門的訓練を経たのちに、国家資格である公認心理師試験に合格する必要がある。密室的状況で実施されることから厳しい職業倫理が求められる。その1つが、同意のない身体接触の禁止である。欧米のように握手やハグといった習慣のない日本では、厳しくタブーとされている。
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