亀戸線、東武が目指した「都心乗り入れ」夢の跡 本線級設備に2両編成、ローカル色濃いミニ路線

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ただ、そんな亀戸線に乗ってみると、全線にわたってなぜだか複線なのだ。10分間隔は比較的運転本数が多いとはいえるが、それでも途中駅で1度の交換を入れれば充分のはず。どちらかといえばローカル線の風情なのに、どうして全線複線という立派な設備を有しているのだろうか。

「実は、かつてこの亀戸線が本線だったことがあるんです。明治時代、亀戸線が開業した当時は、本線、現在のスカイツリーラインから亀戸線を経て現在の総武線に直通する運転パターンでした。亀戸線が開業したことで、曳舟―吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー)間も一旦廃止されています」(篠崎駅長)

当時の総武線は国鉄ではなく私鉄の総武鉄道。まだ隅田川を渡ることはできておらず、両国止まりであった。ただ、それでも東武鉄道にとっては少しでも都心に近づくことができる総武鉄道乗り入れはお客を増やすためには欠かせない秘策だったのだろう。

本線が浅草へ乗り入れ

しかし、1907年に総武鉄道が国有化されると直通運転が難しくなり、1910年限りで直通運転は廃止されてしまう。そこで当時の東武鉄道は方針を転換、亀戸ルートを諦めて再び曳舟―吾妻橋間を再開。その後、本線は隅田川を渡って当時の東京の中心地・浅草までの乗り入れを果たす。結果、亀戸線は“支線”になったのだ。

亀戸駅の改札へ向かう乗客たち。小さいけれど終着駅らしい構造だ(筆者撮影)

「そうした経緯がありまして、亀戸線は本線として重要な役割を担っていた時代があったんです。浅草までつながったことで支線になってしまいましたが、地域輸送としては残った。そしてそれからも長らく総武線方面への乗り換えのお客さまを中心に、多くのご利用がありました」(篠崎駅長)

浅草が東京の中心だった時代は終わり、戦後になってより都心への乗り入れが求められるようになった。それを実現したのが北千住駅を介しての地下鉄日比谷線への直通運転。1962年のことだ。しかし、それでもまだ総武線方面への利用客は曳舟駅で亀戸線に乗り換え、亀戸駅から総武線に乗り換えるパターンで利用していた。実際、運転本数も今より多く、朝は4編成、日中は2編成、夕方は3編成で運用されていたという。

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