「海外ルーツ持つ子」増えた日本が知るべき現実 養育放棄、貧困、いじめ・・・困難に直面する若者

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ベントゥーラさん自身も日本人の妻との間に娘がいる。留学のためアメリカに渡った娘に連絡し、ほかのJFCと同じようにエッセイを書いてみないかと誘った。時間を置かず届いたエッセイには、外見や名前の違いを理由に日本でいじめられ、ずっと学校を苦痛に思っていたことが書かれていた。だが、アメリカ暮らしが始まってからは、他人と自分を比べることをやめ、自分を受け入れることができるようになったという。

エッセイの最後は「何にも後悔はしていないし、過去の痛みのなかで生きていくつもりももうない。日本で生活して、経験した、困難もすべて恵みだと思う。感謝している」と記されていた。

16人のエッセイを集めた「Made in Japan」はこうやって編まれ、2018年秋にフィリピンの大手出版社から発売された。

25歳のときにエッセイコンテストに応募した田中佐紀さんは、両親と共にフィリピンで幸せな子ども時代を過ごしていた。日本に移り住んだのは12歳のとき。エッセイにはそのころの学校体験が綴られている。

「日本語になまりがあることで、リーダー的存在の女子生徒からいじめられたことを記憶しています。私は彼女たちを責めることはできません。教師の質問に答えるときも、教科書を読むときもいつでも、私の発音は少し違っていたからです。(中略)彼らは、私の外見が日本人と同じであっても『ガイジン』として、私を扱いました」

人生を変えた国際交流ラウンジでの出会い

親や妹たちを心配させたくなくて、家では弱音を吐けなかった。

「中学生のときは部活が終わると、毎日、市内にあった国際交流ラウンジに通いました。日本語の指導を受けるだけでなく、いろんな相談を聞いてもらいました。そこはアットホームな雰囲気で自分らしくいられる『居場所』でした。高校受験を控えていたときも、夜遅くまで、苦手な数学の問題を私が理解するまで親身になって教えてくれました」

この出会いが田中さんを変えた。

「一時期はフィリピンのルーツに引け目を感じていましたが、先生やほかのボランティアの方との出会いに恵まれたおかげで、いつしか日本とフィリピンの架け橋になりたいと夢見るようになったんです。エッセイコンテストのテーマを聞いたときは『これだ!』と思いました。当時はまだ日本で自分の力を発揮できていなかったので、自分だからできる誇れる何かを手に入れたかったというのが応募の動機でした。書くことが自分とJFCの仲間へのエールになりました」

田中さんはエッセイをこう締めくくっている。

「こんな言葉があります。『見たいと思う世界の変化に、あなた自身がなりなさい』。2つの世界からそれぞれの良いところを引き継ぐ生き方もその1つだと思います」

【左】真ん中が田中佐紀さん。フィリピンで祖母、いとこと一緒に(2014年)【右】中学時代から支えられた「さがみはら国際交流ラウンジ」のイベントに参加したときの一枚(2019年)(ともに本人提供)
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