米国人驚愕「子が親の介護する日本」深刻な盲点 「家の時代」から「個人の時代」へシフト
要するに、同じお財布を共有している人の単位が異なるということだ。日本の場合には、別々の家族を営んでいるようで、親も子どもも、いつまでも緩やかに同じお財布を共有している。
一方のアメリカは、子どもが独り立ちした時点で独立採算制になる。もちろん、親の遺産を相続することもあるだろうが、アメリカ人の多くが遺言を残すとされ、日本の遺留分に当たる制度はない。個人の人生の後始末は個人の意思によるのが原則なのだ。
そういう全体像の下で、ロー・スクールの教授は、「子どもが年老いた親の面倒をみるっていう義務が、そんなにはっきり法律に書いてあるの?」と私に問うた。そして、法学部の教授は、「江戸時代までの日本の『家』っていうのはね、これは、会社なのよ」と指摘したのだ。
「個人の時代」へ踏み出そうとしている日本社会
そう考えると、アメリカのロー・スクールでの授業風景が異なったものに見えてくる。日本の子どもたちに思いやりがあって、アメリカの子どもたちは年老いた親に冷淡だという、そういう国民性みたいな話ではない。これは、アメリカの「家族」と日本の「家」の決定的な違いなのだ。
アメリカの家族は点々と社会に散りばめられている。一方、日本の家は世代を超えて連綿とつながる線を描く。だが、問題はここでは終わらない。私たちの社会は、今、「家の時代」からアメリカのような「個人の時代」へと足を踏み出そうとしている。
夫婦別姓の問題も、森喜朗氏の発言に端を発した「女性という属性ではなく個人を評価しましょう」という動きも、私たちを「家」の世界観から「個人」へと押し出そうとする。
「個人の自律」というと聞こえはよい。だが、介護の問題、パラサイトチルドレン、8050問題――そこに頼って生きてきた人々が「家」から押し出されたとき、社会が彼らに居場所を用意できるのかが真の問題だろう。
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