米国人驚愕「子が親の介護する日本」深刻な盲点 「家の時代」から「個人の時代」へシフト
一方、日本の「家」は線である。隠居した親の面倒は子どもがみる。その子も将来は、自分の息子やそのお嫁さんに面倒をみてもらう。家業を、親から子ども、そして、孫へと引き継いでいくその裏で、家業を営むことで得られるあがりで、年老いた親、出戻りの娘、引きこもった息子、家の構成員全員を養っていく。
家は、世代を超え、核家族の境界を超えて、一族を縦に結びつける。そしてこの家は、精神的な結びつきのみならず、経済的な基盤でもあるのだ。
今、日本では、もともとの「家」の価値観と西欧由来の「個人」の価値観が交錯する過渡期にある。相続というのは「個人」の側の概念である。日本には、もともと財産が個人に帰属するという考え方はなかった。そういう考えが輸入されたことで、相続という制度ができあがった。
社会に色濃く残る「家」という感覚
だが、こういう相続争いの法廷で、私は「家」という感覚が、社会に色濃く残っていることに気づく。例えば、長男次男という序列が慣習として存在する。長男は、幼い頃から「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼ばれてなにかと優遇される。家業を継ぐとすれば、まずは長男が第一候補者だ。
それと引き換えに、年老いた両親は長男が自分の家に引き取って介護をするものだという価値観、これが今でも地方ではそれなりに強く残る。
考えてみれば、日本で社会問題となりつつある親の介護も、「家」という制度の遺物なのかもしれない。
年老いた親が介護を必要とするならば、すでに家を出ていたとしても、まずは子どもが担い手となるべきだ。そういう感覚が日本にはある。老人ホームに入所させる費用を親の貯金で賄うことができなければ、それは子どもが負担するべきだと考える人も多いだろう。
財産が個人にではなく家にあると考える。すると、この価値観はとても自然だ。子どもの財布から親の介護を賄っているように見えて、その実、家の財産から隠居した先代の生活費を出しているにほかならないのだから。そして、同じ制度が続くならば、自分の介護についても子どもに面倒をみてもらえるという期待が生じる。