意識高い系「自分探しの旅」が失敗しがちな理由 「外への扉」と「内なる扉」がつながるサードドア
ここからはじまる七転八倒の冒険譚のおかしさや、次々と現れる新たな扉、それを開けてゆくワクワク感は、ぜひ本書を手に取ってお楽しみいただきたい。著名人とのアポを得るために、とにかく執拗に突撃してゆき、けんもほろろに弾かれるその姿は、ほとんどストーカーと化す場面すらあり、共感すべきは、落ち込むバナヤン氏なのか、それとも迷惑を被っている著名人のほうなのか、混乱するほどだ。
だが、そこが面白い。「へたな鉄砲」が命中し、見事にインタビューの機会を得たり、重要な味方として行動を共にする仲間を得たり、奇跡的な出来事も起きるのだが、バナヤン氏は、一連の失敗や成功、その際の思考回路や心身の反応などを、バカ正直なほど赤裸々に「その時点での、自分の視野」でつづっているのだ。
すっかり成熟した大人になってから、若気の至りを回想し、きれいにまとめた自伝はよくあるが、『サードドア』には、失敗をやらかしたその時点では、まだ深く理解できておらず、「えっ、なんでダメなの? うまくいくはずなのに」という具合に、ちっとも思い込みから抜け出せていない、若者の危うい未熟さがリアルに描き出されている。
「わかった気になっている」状態と、「腑に落ちる、合点がいく」状態とはまるで別物だ。人は、自分が経験し、身に染みた範囲までしか、物事の複雑さや、他人の事情などを理解できないところがある。自分の了見が浅く薄っぺらなうちは、他人の姿もその程度までにしか見ることができないのだ。
「空の蒼さ」を知るために必要なこと
そのような、自分の視野の範囲がすべてだという「井の中の蛙」的な思い込みは、いくつもの体験をパズルのピースのように組み合わせたとき、はじめて「そういうことだったのか!」と打ち破られ、「空の蒼さ」の多彩さを知ることができるものだろう。
調子よく「外への扉」を開け続けていても、「内なる扉」の開放が行えなければ、人は成長できない。成長のためには、開かずの扉に跳ね返された痛みを受け止める、つらい作業も必要になる。『サードドア』は、アレックス・バナヤンという18歳の若者の視野を通して、その過程を追体験することができる。
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