コロナ禍の今、日本医療の特徴を考えてみる この国の医療の形はどのように生まれたのか

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1948年、GHQの指示で「医療法」が制定されていた。この医療法は、20人以上の患者を入院させるための施設を病院として、病院と診療所を区分し、病院を尊重する立場に立っていた。GHQは、国・公立病院を中心に据えるワンデル勧告を考慮して、医療法で、国が自治体病院に国庫補助金を拠出できるようにした。

一方、1948年当時、日本の病院数の7割強が私的病院という戦前の状況とは大きく変わっていない現実があった。私的病院には、免税や国庫補助金のような支援制度はなく、自治体一般会計からの繰り入れもない。そして納税の義務があった。

この頃の国家財政は、1949年2月にドッジによって勧告されたドッジ・ライン下の均衡予算であることから、政府には、公的病院を拡充するための資金の余裕はなかった。そこで、医療法施行から2年後の1950年に法改正を行い、「医療法人制度」を導入している。大著『日本病院史』の著者である福永肇氏は、「このアイデアは、個人の資金を民間医療機関に出資させようとする世界に類を見ない日本独自のユニークな制度」と論じている。

民間医療機関に法人格を付することにより、銀行からの資金調達が容易になるとともに、法人であるゆえに相続税問題から解放され、私人とは異なる税の軽減などもあり、法人に対する各種の公的補助金や税制上の優遇も享受できた。これらの理由があり、医療法人は急速に普及していった。

独立後、高度成長期の医療政策はどうなったか

1951年9月8日、GHQによる占領が終了する。前年、1950年からの朝鮮特需で持ち直しはじめていた日本経済は、徐々に、欧米先進国の背中を見ながらキャッチアップ軌道に乗り始めていく。

高度経済成長期を迎えると、産業界の資金需要は活発となっていった。銀行は高い金利で融資を行うことができる大企業を私的病院よりも優先していくのは当然で、そうした中、1960年に、民間の診療所・病院に対して公的資金を超低利・超長期の条件で貸し付けを行う医療金融公庫が設立される。

医療金融公庫の主な資金源は、郵便貯金、簡易保険、公的年金であり、これらが国の財政投融資を通じて投入された。ただし、大蔵省資金運用部(当時)から医療金融公庫に回される資金にも制限があり、かつ、民間金融機関からは民業圧迫との声もあったため、病院は医療金融公庫から所要資金の全額を借り入れることはできない規定が設けられていた。それゆえ、一部自己資金ないしは銀行借り入れが必要であり、それが病院による規模拡張への投資の制約条件となっていく。

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