コロナ禍の今、日本医療の特徴を考えてみる この国の医療の形はどのように生まれたのか
日本の医療は、江戸時代に築かれた自由開業医制を基盤としてきたと評されてきた。明治に入り1887年の「医制」を機に漢方から西洋医学への転換が図られたが、それは従来医業に携わっていた人たちにも医師免許を付与して医師の総数を維持しながらという漸進的な方法で行われたために、自由開業医制の伝統は継承されていった。
明治以降に登場した日本の病院については、官立、特に公立の病院を軸に整備が進められていた。だが、松方デフレ後の財政再建を背景とする1887年の勅令により、公立病院への地方税の投入が禁じられて以降、提供体制は民間中心になっていった。しかし、第2次大戦直後の占領期から、病院を公的病院中心に再編成する動きも生まれた。戦後のそのあたりの話からはじめよう。
占領期にGHQが与えた影響
行政学者ワンデル博士を団長とする6名のアメリカ社会保障調査団が、ワンデル勧告と呼ばれる報告書を、日本政府に渡したのは、1948年7月である。ワンデル勧告は、医療は公的責任において提供すべきものであり、病院については、国・公立や公的な機関を中心にすべきであって、「公的財源による病院建設」が勧告されていた。
一方、ワンデル勧告を見たアメリカ医師会は、歴代3期に及ぶ医師会会長ら自らが日本を訪れ、アメリカ医師会の指向する医師の「自主性と企業性」を確保することを主張し、医療の提供面において医師会が主導的な役割を果たすことを強調した報告書をGHQに提出している。
つまり、戦後日本には、GHQを通じた提供体制のあり方に対する提言が、2つあったことになる。
日本が戦後継承していったのは、ワンデル勧告の流れである。
ワンデル勧告を受けて1949年に設置された社会保障制度審議会は、同年末に、「社会保障制度確立のための覚え書」を出し、「医療組織については、総合的計画の下に公的医療施設の整備拡充を図るとともに、開業医の協力しうる体制を整え、また公衆衛生活動の強化を図る必要がある」と論じていた。
社会保障制度審議会は、1950年に「社会保障制度に関する勧告」を出す。そこには、「人口2000の診療圏において、公私の医療機関のない場合には、少なくとも一診療所を有するように配置することを目標とし、都道府県は、無医地域を解消するため、自らその設置運営をなすものとする」と提言している。今の言葉で言えば、都道府県による提供体制の整備が勧告されていたわけである。
こうした動きと並行して、社会保障制度審議会の1956年勧告では、「いやしくも公的資金により開設設置される病院については、(中略)医療機関網の計画的見地から、強力に、その地理的配置、規模、設備、機能などについての規制を行うべきである」「医学、医術の進歩に伴い、精密かつ複雑な治療設備や検査設備も必要とするのであるから、その施設は単に当該病院の専有物にせず、医療機関相互の利用を認め、その有機的な連携をはかるとともに、施設設備に対する重複な投資を避けさせしめることが望ましい」との方針が提示されていた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら