「福島原発事故」10年後の今でも検証足りない訳 世界のどこにも起こりうる普遍的な挑戦

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原発苛酷事故は必然的に国家的危機を招く。

福島原発事故が、日米同盟危機をも引き起こしたことは示唆的である。

日本は、そうした国家的危機にあたって、政府も企業も戦略と統治の両面でその質が問われ、そしてリーダーシップのあり方に深刻な疑問符がつけられた。

究極のところ、福島原発事故は、備えを怠ったために起こった人災だった。

それらの備えの中で、もっとも重要な備えはガバナンスであるはずだったが、それが不十分だった。

フクシマの悲劇は、効果的なガバナンスを欠いていたことにあった。

2012年9月、独立性の強い3条委員会である原子力規制委員会(田中俊一委員長)とその実行組織である原子力規制庁が発足した。

安全規制の決め方や進め方は、より独立し、より透明になった。

しかし、原子力規制委員会はあの“原子力ムラ”の住人によって占拠されていた原子力安全・保安院や旧科学技術庁とどこがどう違うのか、本当に違うのか、について国民はなお得心がいっていない。

たしかに、その後、各電力会社は、津波対策用の防潮堤を構築し、非常電源対策用に電源車を購入し、バッテリーを大量に貯蔵し、消防車を何台も買い揃えた。

ハード面は整ってもソフト面での備えは不十分

ただ、それらはいずれも目に付きやすい、いわばハードウェア面中心の備えである。

それに比べて、原発過酷事故の際に「最後の砦」となるべき実行部隊の編成、住民の避難計画、健康への影響、線量の管理などのソフトウェア面での備えは依然、不十分である。

例えば、事故の際の住民を放射線被ばくから守るためのリアルタイム被害予測システムであるSPEEDIは、福島原発事故後の住民避難の際、使われなかった。そこからどのような教訓を引き出すべきか、についてはいまだに議論が収斂していない。全国知事会が「有効に使うべきである」と提言したのを受けて政府は、「各自治体が自身の責任で用いることを妨げない」と決定。しかし、原子力規制委員会は「使えない。使ってはならない」との見解を示すなど、関係諸機関の間で共通認識はバラバラのままである。

おそらくソフトウェア面での備えでいまなおもっとも欠けているのは、想像力であるかもしれない。巨大津波にしても、大規模複合災害にしても、メルトダウンにしても、最悪のシナリオにしても、それらを「想定外」にしてしまった想像力の封じ込めがいかに致命的な結果をもたらしたことか。それこそが、福島原発事故で学んだ最大の教訓だったのではなかったのか。

しかし、このことは、日本人が、そして日本の社会が本来的に想像力を持っていないということではない。政治と行政が住民と国民に対して、安全と安全保障の面で起こりうる「想定外」の事態と可能性を常日頃から想定し、それに対する備え(preparedness、prevention、response)を用意し、そのことを国民に周知させ、国民の自覚を促すことをしてこなかったことに問題の根っこがある。

次ページリスク評価そのものを「想定内」に閉じ込めようとする風土
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