徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由 家臣も驚愕!なぜ辺鄙な土地を選んだのか?

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しかし、家康の考えは違っていた。小田原も鎌倉も山に囲まれており、敵に攻め込まれにくい半面、そのことが都市としての発展を阻害していると見たのである。その点、関東平野のまん中に位置する江戸は海に面しているうえに関東に幾筋も流れる川の終着点でもあった。

物資を運搬するのにこれほど都合がよい土地もなかったのだ。大坂の発展を見るまでもなく物資の流通が都市の発展に直結すると考えていた家康は、これまで氾濫を繰り返すため厄介このうえないと思われていた江戸の河川さえ制することができれば勝算はある、とにらんだのであった。

こうした目論見のもと江戸に入った家康は、当時は粗末な城であった江戸城の改築工事から着手した。必要な建築資材は、城から江戸湾まで水路を建造し、その水路を利用して搬入した。

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同時に城下町を建設するため今日の皇居付近まで食い込んでいた海の埋め立てにも乗り出した。駿河台の南端にあった神田山を切り崩し、その土を充てた。このとき埋め立てられたのが現在の日比谷公園や新橋周辺である。

家康は文禄3年(1594年)には、当時江戸市中にたびたび洪水被害をもたらしていた利根川の付け替え工事にも乗り出す。当時は江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを太平洋に面した銚子へと移すというかつてない大工事で、これを31年もの歳月をかけて完成させている。

この利根川の付け替え工事は、江戸における洪水被害を防いで湿地帯を農作地に適した土地に変えるばかりか、江戸と太平洋とが直結することになるため利根川を水運の大動脈として機能させられるという利点もあった。

江戸を本拠地に選んだのは「大正解」

家康は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利すると、諸大名に河川改修や上下水道、道路、掘割運河などの「インフラ整備」を命じた。世にいう「天下普請」の発令である。

これには諸大名の経済力を削ぐ目論見もあったという。諸大名は家康に忠誠心を示すため、それこそ死にもの狂いで工事にあたったようである。

こうして江戸の都市化が着々と進むなか、家康は元和2年(1616年)にその生涯を閉じた。おそらく最晩年の家康は、100年、200年先を見据えて江戸を本拠地とすることに決めた自らの判断に満足を覚えていたに違いない。

新 晴正 作家

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あらた はるまさ / Harumasa Arata

石川県生まれ。経済紙記者として現役で活躍するかたわら、歴史への探究心とその該博な知識を活かし、歴史の意外な側面にスポットを当てる書籍を"黒子"として数々執筆。参画した書籍のベストセラー多数。本作は、その名ではじめて世に出す、ひと味違う日本史教養本である。

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