徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由 家臣も驚愕!なぜ辺鄙な土地を選んだのか?
豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして、小田原の後北条氏の攻略に成功したのは、天正18年(1590年)7月のことである。このとき小田原攻めに加わっていた徳川家康に対し、秀吉がこんな言葉で関東への移封(国替え)を命じたという。
「関東を貴殿に与える代わりに、それまでの貴殿の領地はもらう。この小田原は東国支配の重要地であるから、家臣の中から信頼できる者を選んで守らせ、貴殿は江戸に本城を築かれるのがよろしかろう」
家康は、この言葉を聞いて愕然としたに違いない。江戸といえば、三河や遠江を本拠とする家康にとって、政治・経済の中心である京大坂から遠ざかるばかりか、当時の江戸は葦の生い茂る低湿地帯がどこまでも広がり、わずかに寒村・寒漁村が点在するだけの未開の地であったからだ。
このときの秀吉の命令は断固たるものではなく、家康にはこの小田原、または鎌倉のいずれかに本拠を置くこともできたという。しかし家康は、小田原や鎌倉がすでに十分な都市機能を備えているにもかかわらず、それらには目もくれず、秀吉の命令どおり江戸に本拠を移すこととする。
一体、なぜ家康はこのとき江戸を選んだのであろうか。本稿ではそのあたりの謎について迫ってみたいと思う。
家臣も驚いた「江戸」への移封
秀吉が家康に対し関東への移封を命じた時点で家康は、三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を領する実力者であった。それを召し上げ、替わりに後北条氏の旧領であった関東8カ国(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野、常陸)を与えようというのである。
確かに石高だけを見れば150万石から250万石へと大幅に増えることになるので家康の面目は立つのだが、中央から遠ざけられることによる影響力の低下は否めなかった。
秀吉がそうまでして家康を自分のそばから遠ざけたかったのは、家康が自分に匹敵する実力者だけに、「いつかこの男に寝首をかかれるかもしれない」と怖れたからにほかならない。おそらく秀吉は、剣呑な敵対者を少しでも遠くへ追いやり、その隙に豊臣政権を盤石なものにしたいと考えたのであろう。
家康が関東への移封を命じられたとき、家康の大方の家臣たちは、ご主君は小田原か鎌倉のどちらかを本拠と定めるに違いないと読んでいた。小田原は後北条氏の本拠地として長く栄えており、今回の小田原攻めにおいても城自体はほとんど無傷であったのも好材料だった。
一方、鎌倉はかつて鎌倉幕府が置かれており、武士にとっては「聖地」のような場所だった。小田原か鎌倉か、家臣たちが注目するなか、家康が選んだのは、まさかの江戸であった。
このときの家康の決断に対し、家臣たちは一様に驚愕した。家臣の一人の石川正西が著した『聞見集』には、「どうしてそんな所にと、誰もが手を打って驚いた」とある。
前述したように当時の江戸は低湿地帯が多いごく辺鄙な土地で、そんな土地に新たに城や町をつくるのは至難のわざであると誰もが考えたのである。
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