有名出版社を辞め浪曲師になった彼女の生き様 素人から浪曲界の顔に「玉川奈々福」人生劇場

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――現在も奈々福さんは、浪曲だけではなく隣接する芸能の方との共演も多く実現させています。最初からそうしたプロデューサー志向があったのかと思いきや、違ったんですね。

本当に行きあたりばったりで生きてるんですよ。にっちもさっちもいかなくなったときに初めて考えるんです。このとき考えたのは、浪曲は時代遅れの芸能って言われるけど本当にそうなんだろうか、ということです。

時代に合わないものは滅びるだろうけど、もし芸そのもの以外のところに停滞の原因があるなら、一つひとつ改善していったらどうなるだろう。そこで宣伝方法であるとか、いろいろな改善を試みた結果、満員のお客さんに来ていただけたんです。浪曲ってこんなにおもしろかったっけ、みたいな声が耳に入ってきて、ああ、大丈夫、浪曲のせいじゃなかったんだ、と安堵しました。

親以上の存在である「師匠」を失う悲しみ

――「徹底天保水滸伝」を成功させて浪曲師としても奈々福さんがしっかり歩み始めた矢先、衝撃的な事件が起きます。2007年5月23日、師匠の福太郎さんが事故に遭って亡くなってしまいました。芸人の師弟は親子よりも密接な関係にあると思います。そのときのお弟子さんの心情は、余人には測り知れません。

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もう浪曲はおしまいだと思いました。うちの師匠が希望の星だと思っていたから。浪曲がなくなっちゃうって思いましたね。

――ましてや自分をその世界に入れてくれた親のような存在ですものね。その喪失感を埋めていこうとしたことが、芸人・玉川奈々福の現在と自信を形作っていったのかな、と勝手ながら想像しているのですが。

自信は、ずっとなかったですね。2007年に師匠が亡くなった後も、断続的にいろいろな企画があったんです。義太夫節と浪花節を聴く会というのをやったり、オペラと共演したことから「椿姫」を原作にした「椿太夫の恋」を作ったり。いろいろな方と出会うことで自分が強められていったという側面はあります。

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