「一種の反抗期だったのでしょうかね……」そう振り返る明子さんだが、明子さんは反抗期で学校に足が向かなかったのだろうか。わがままで学校をサボっていたのだろうか。彼女が求めてやまなかった「自由」とは何だったのか。
「自律」の機会のなかった少女
子どもの成長の過程には2つの「じりつ」があると言われる。1つは、経済的、技術的、身体的な「じりつ」を指す「自立」であり、将来親に頼らずとも生きていけるように育てること。そこまでが親の義務だ、という考え方に使われるのはこちらの「自立」だ。
そして、もう1つは、より内面的なことを指す「自律」。こちらは自分らしさや自分の価値観、信念をもって自分で決めたことに従うことができることを指すという。
気になって三省堂の『新明解国語辞典』を引いてみると、「自分で決めた規則に従う(従いわがままを抑える)こと」と書かれていた。はたして、明子さんに自分の意思を持つ隙間があっただろうか。
「慶應に入ること」を目標に決めたのも明子さんではなく親だった。中学受験の志望校を決める際にも彼女の意見は聞かれていない。自分の定めた目標ではなく、親が決めた目標に向かってただただ努力を求められた小中学生時代。親から与えられた目標は親の目標でしかないのだが、親の望みは何かを忖度するかのように、彼女が塾通いを嫌がることはなかった。彼女は「自律」するチャンスのないまま、多感な思春期を迎えたのだ。
結局、「慶應」というゴールに向かって敷かれた難関進学校というレールからはずれ、中学2年の3学期、地元の公立中学へと転入した。明子さんはその後、制服のない都立高校へ進学、大学の看護科へ進み、看護師となった。
「今でも家族の集まりのときは慶應の話が出ますけれど、もう自分を惨めに感じることもなくなりました。むしろ、あそこしか知らない親族の人たちよりも、私はたくさんの世界を見られてよかったなと。結婚相手も絶対に慶應の人はよそうと思うくらいでした」
結婚し、子どもも授かった明子さんは自身の子どもの小学校受験は考えていないという。
「私は合格しなかったので、もう、その重荷を背負わなくてもよくなりました。それに引き換え兄のところはかわいそうだなとさえ思います。”幼稚舎受けるんでしょ?”という、うちの親の雰囲気を見ると、お嫁さんは大変だろうなと。プレッシャーだろうなと思うんです」
”慶應”の2文字から、自らの力で抜け出した明子さん。解放され、自由を手に入れた明子さんは、自分らしい幸せを手にしていた。
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