サミュエルズ教授、「集団的自衛権」を語る 集団的自衛権行使容認は日米関係を強化

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Richard J.Samuels マサチューセッツ工科大学(MIT)の政治学教授で同大国際研究所所長。同大政治学部長兼米国学術研究会議(NRC)日本委員会副委員長、日米友好委員会委員長。日本の政治・安全保障政策スペシャリストの第一人者(写真はMITのホームページより)

――今、日本で議論されている集団的自衛権の行使容認について、歴史的な文脈から解き明かすと、どうなるか。

米ソ冷戦が終わってから日本は外交・安全保障政策を進めるうえで新しい戦略を模索してきた。

長い目で見ると日本現近代史上、今回の合意が行われれば4回目のコンセンサスになると思う。

明治維新後、第1回目のコンセンサスは“富国強兵”だった。当時、西洋に追い付き追い越すためには経済発展が最優先された。経済がしっかり根を張るまで軍備拡張はお預けだった。

第一次世界大戦の終了までに、このコンセンサスは変質した。富国か強兵かの議論が盛んとなり、特に軍事優先派とリベラル国際派との間で議論は対立した。後者はヴェルサイユ条約はじめ一連の不平等条約で日本が不利になるのに伴って牽引力を失った。1920年代後半から1930年代初めまでに、従来のコンセンサスは大東亜共栄圏構想とともに大日本帝国というモデルに取って代わった。それを代表する人物が近衛文麿元首相だ。それが太平洋戦争の終結でどうなったか、知らぬ人はいない。

大東亜共栄圏構想から商業リアリズムへ

かくて戦後には、第3回目のコンセンサスが必要になった。新しい戦略を求めて、日本は再び20世紀初頭に論じ合ったことを議論することになった。

その結果、日本は小国として貿易立国を目指すべきだという主張が勢いを回復し、米国占領政策によってそれが勢いづいた。軍事力を優先しない貿易立国日本という考え方は20世紀の最初の10年に戻るものだ。戦後、軍事力はうまい具合に影をひそめたため、その考え方が「吉田ドクトリン」として再び祭り上げられた。私はそれを“商業リアリズム”と呼んでいる。

それを推進したのは吉田茂元首相に代表される筋金入りのリアリストたちだ。彼らは、しばしば平和主義者と混同される。現実には、彼らは左翼にも手を差し伸べる必要性を認めるリアリストであり、1947年に制定された平和憲法を変えないと決意していた。もっとも日本の非軍事化はいずれ後退し、世界の情勢に応じて軍事力を拡大せざるをえなくなることは理解していた。

しかし、1950年代、1960年代を通じて、さらにそれ以降も吉田ドクトリンは日本の指導理念として続き、日本は米国の安全保障の傘の下で防衛費を膨らませることなく、不平等な安保条約を受け入れてきた。この第3回目のコンセンサスは冷戦崩壊とともに変質することになる。米国がいつまで日本の“商業リアリズム”を受け入れるかどうか定かではなかった。米国は日本に対して、特に東アジア地域での安全保障上の責任をもっと果たすように求め、なかには東アジア地域を越えたアクションを求める声もあった。

それは自民党内部の反吉田ドクトリンの人々には好都合だった。安倍晋三現首相の祖父・岸信介元首相が反吉田ドクトリンの代表格。戦後間もない1950年代の一時期に岸は首相になったが、それ以来、彼の取り巻きたちは憲法改正、とくに憲法9条改正を主張してきた。冷戦崩壊によって吉田派と反吉田派の対立が再燃し、吉田ドクトリンは牽引力を失った。

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