今は昔「箱根山戦争」、小田急・西武が築く連携 「協調路線」でコロナ禍を乗り越えられるか

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他方、五島氏が箱根登山鉄道(1919年開業)を傘下に収めたのは1942年だから、だいぶ後発だ。だが、小田急として見るならば、小田原までの全線が開通したのは1927年のことだし、1935年からは新宿と小田原をノンストップで結ぶ「週末温泉急行」という、のちのロマンスカーのルーツとなる列車を運行しており、東京方面から箱根への誘客を強化した、その功績は大きい。

堤氏と五島氏を比較すれば、先に箱根にいたのは堤氏ということになるが、当初は西武が三島・熱海側、つまり箱根の西南側からのルートを開発したのに対し、小田急は東側の小田原からのルートを確保したことから、すみ分けができていた。また、堤氏の回顧録「苦闘三十年」に記されているように、堤氏と五島氏は「初め親しい友人同士」だったという。

「戦争」勃発のきっかけ

では、なぜ「戦争」になったのか。それはやはり、両者ともに自系列の交通手段だけで箱根を制覇したかったのである。

先に動いたのは西武系の駿豆鉄道で、1947年、同社はそれまで小田急系の箱根登山バス(当時は箱根登山鉄道のバス部門)が独占運行するドル箱路線だった小涌谷―小田原間への路線バス乗り入れを免許申請した。これが認められれば、西武は熱海・三島から箱根を経由して小田原まで、バスによる一貫輸送が実現するとともに、傘下に収めていた駿豆鉄道の大雄山線(小田原―大雄山)までを結ぶことができる。

小田急陣営は、これに対抗して前述した西武の有料道路のうち早雲山線(小涌谷―早雲山―湖尻)への路線バス乗り入れを申請する。

結果として1950年から双方の乗り入れが開始された。しかし、西武の有料道路は堤氏が、「巨費を投じ、二十八キロに及ぶ私有道路を、十三年間もかかって苦心して私が建設した」(苦闘三十年)と記すように、一般自動車道とはいえ特殊な事情があった。そのため、箱根登山バスの乗り入れは、運輸省の勧告により正式免許ではなく、1年ごとに更新の「乗入れ運輸協定」に基づくことになった。これが後に大きな火種となる。

最初の大きな争いが起きたのは芦ノ湖上だった。芦ノ湖の遊覧船事業は、それまで駿豆鉄道が独占していたが、1950年に小田急系の資本が入った箱根観光船が設立されると、まず、桟橋の位置をめぐって争いが勃発する。次いで、1956年に箱根観光船が大型船「足柄丸」を就航させると、これが駿豆鉄道を強く刺激した。

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