今は昔「箱根山戦争」、小田急・西武が築く連携

「協調路線」でコロナ禍を乗り越えられるか

芦ノ湖での小田急側の動きに対して、西武側は有料道路の「乗入れ運輸協定」を破棄し、道路入口に遮断機を設置して箱根登山バスの進入を阻止する実力行使で対抗する。さらに、この争いは双方が訴訟を起こし法廷闘争になるとともに、兜町にも飛び火する。西武は1957年と1960年の二度にわたって小田急株を買い進め、一時は「西武による小田急乗っ取りが現実味を帯びた」とまで囁かれた。

大涌谷上空を行く箱根ロープウェイ。ロープウェイの開業によりゴールデンコースが完成した(筆者撮影)

この西武側の措置に対抗する小田急の秘策がロープウェイ(早雲山―大涌谷―桃源台)の建設だった。バスの運行を阻止された有料道路区間の上空にロープウェイを通してしまおうというのである。ロープウェイは、1960年に開業。これにより、小田急系の交通機関だけで箱根を周遊できるようになった。箱根ゴールデンコースの誕生である。

すると、堤氏は、これ以上の争いを無意味と見たのか、その後、神奈川県からの有料道路買収の申し出を受諾。1961年に湖畔線と早雲山線の有料道路2路線が県道として開放された。

なお、この間に五島氏が1959年8月に病没し、その後、堤氏も1964年4月に亡くなる。両巨頭の没後、箱根山戦争は急速に終結に向かうかと思われた。

約20年を経て「和平」成立

両巨頭の死によって和平協定締結の機が熟したと見た運輸省の広瀬事務次官が、1964年7月、運輸省に西武鉄道の小島正治郎社長と小田急電鉄の安藤社長を呼び、両者が和平会談の席に着く。ついに箱根山戦争終結かとも思われたが、互いに腹に一物を抱えたままでは和平交渉は進まず、膠着状態が続いた。

「戦争」終結に向けて大きく前進したのは、1968年だった。五島慶太氏の長男で東急電鉄を継いだ五島昇氏が、その前年、東名高速道路の開通に向けて東名沿線の私鉄12社を集め、東名急行バス会社を設立。その高速バス路線の調整に当たり、「まずは西武と小田急のシコリを解くことが必要」であるとし、当時は伊豆箱根鉄道社長だった堤義明氏(堤康次郎氏の三男)と小田急の安藤社長を銀座東急ホテルに招き、和平斡旋したのだ。

その後の雪解けは急速に進み、「安藤社長と二人きりで会ったのは5、6回を数える」(堤氏)というように両者は会談を重ね、1968年12月に東京プリンスホテルで、箱根登山の柴田吟三社長、東海自動車の鈴木幸夫社長を加えた4社長が会合し、今後は箱根のバス路線の相互乗り入れについて協調することを確認。協定書に調印し、約20年続いた箱根山戦争が終結を見た。

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