「学問の自由」がいつも破られる歴史的理由 研究と国家権力との危険な関係は常に存在する

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もちろんそれが一概に悪いわけではない。こうした資金によって研究が急速に発展し、社会に貢献できるようになったことも確かだからである。しかし何事にも表と裏がある。お金を出す者は、口も出す。あれやこれやと条件が付けられる。自由にものをいうには、金をもらわないに限る。ほかで稼いで研究に使えばいい。しかし、そうした気概がある者がわずかであれば、資金提供者のいいなりになることになる。こうして大学から、次第に自由な研究が消えていった。

戦前の日本を振り返ると、最初に攻撃の対象となったものは、文系、それも社会科学のマルクス主義者であった。しかし、この時多くの大学はこの弾圧を当然のこととして容認してしまった。その結果、マルクス主義者の後には、自由主義者の追放が続いた。そして大学には、国家神道や愛国主義を掲げる国家主義者だけが残った。

昭和11(1936)年に文部省によって創設された「日本諸学振興委員会」の設立趣旨には、こう書かれている。「日本諸学振興委員会は国体、日本精神の本義に基づき、わが国諸学の発展信仰に貢献し、延べて教育の刷新に資する目的をもって昭和11年9月8日文部省訓令による規程に基づき設置されたもので」あると。

学問が、そうした国体と日本精神に基づかねばならなくなったのである。これらが当時の軍国主義国家に利用されたのは、当然だ。そこに居並ぶ学者たちの多く、そしてその学問的成果は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったのだが、戦後その多くは消え、今や顧みられることさえない。

軍国主義国家への利用を戦後反省したが……

戦後こうしたことを反省し、わが国の学問は権力からの自由を目指して再スタートしたのであるが、戦後の冷戦下、軍事競争や経済競争の下、国家戦略に巻き込まれていく。

いつの時代も、今がどんな時代であるかをその渦中で確かめることは難しい。かつて旧ソ連のスターリン(1878~1953年)による大粛清の最中、トロツキー(1879~1940年)はフランス革命の歴史に触れ、ロベスピエール(1758~94年)の粛清とスターリンの粛清を比較しながら、フランス革命でいえば、今ソ連はどのあたりにいるのかと自問していた。しかしそのトロツキーも、事態の進展具合を見抜けず、結局失脚し、メキシコで暗殺される。

では、令和の今、われわれはどの地点にいるのだろうか。戦後の誓いが大きく揺れ始めたのは、戦中派が大学を退いていく1980年代後半からである。

そのころ、新自由主義が台頭し、ソ連・東欧が崩壊していく。マルクス主義研究者が転向しはじめ、大学の大綱化が始まり、戦後の学問の中枢を占めていたいわゆる左翼の講座が、大学から消えていく。もちろん戦前のように暴力的ではなく、きわめて合理的に、現代の趨勢に適応しなくなったからと説明されて、消えていく。講座がなくなれば大学院生もいなくなり、研究者も消える。そしてIT化とともに、コンピュータオタクの研究者の登場である。

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