朝ドラ「エール」凄惨な戦地の描写に透ける覚悟 天才作曲家・古関裕而を描く為に逃げられない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

時には、セリフを言う俳優を変えることもあるとか。また、裕一の喪失と絶望と並行して、裕一の妻・音(二階堂ふみ)の愛知県豊橋にある実家の戦争被害を描く場面でも、音の母・光子役の薬師丸ひろ子のあるアイデアが場面に深みを作りあげた。

窪田の一瞬の表情、薬師丸のセリフを凌駕する表現、こういう工夫の積み重ねが、ドラマというフィクションに、きらりとホンモノの光を感じさせるのだろう。

「エール」は実在する作曲家・古関裕而をモデルにして、彼の作った楽曲はそのまま使用しながら、登場人物とその物語は創作になっている。正確にいえば史実と創作を混ぜて作っている。古関裕而は実際にビルマに慰問に行っているが、そこでの出来事はドラマ上では創作である。前の週・17週で、裕一に召集令状が来て、それを映画の主題歌を依頼した人物のツテでなかったことにするエピソードがあるが、古関裕而の場合、召集令状が来たのは、ビルマ慰問のずっとあと。終戦に近い時期だ。

ビルマで裕一が目の当たりにする衝撃的な出来事もドラマの創作である。その中で極めて重要な役割を担う藤堂先生はオリジナル色の強い人物で、音楽や教師の仕事を大事にしながら、妻子を守るために自ら戦場に赴くという波乱万丈の人生を送る。

「こうやらなきゃいけないと思いました」

史実があるものの中で、創作部分をどう描くか。とりわけ、戦争問題や人間の生死を描く責任は重いのではないだろうか。それについてどう考えるか、吉田さんに聞いてみた。

「古関さんが慰問されて現状を見ている事実を引きずっていくからこそ『長崎の鐘』や『オリンピック・マーチ』が生まれるわけですから、慰問先で見たであろうものを想像して描きました。それが真実かそうでないかと問われれば、正確にいえば、真実は果たしてなんなのかという話になって、『真実はない』と定義づけてしまうと、いまの質問は答えようがなくなってしまいますが、僕の中で彼の本やインタビューを読んだときに、明らかに、『長崎の鐘』などには平和への祈りが込められていると思いました。

なぜ彼がその曲を大事にしたかというとやっぱりそれは戦争の経験があったからだと。戦争の経験が楽しい経験であるわけはなく、無常さを感じたのではないかと思います。これが古関裕而さんの真実かどうかはわからないですが、僕はそう思った。ですからこうやらなきゃいけないと思いました」

「逃げられないからやる」と言っただけはある覚悟が感じられた。

次ページ描かれた終戦当時のマスコミの状況
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事