デジタル庁が「打上花火」にならない為の処方箋 個人や国家の「自己決定」菅政権は何ができるか
国家が特定の外国勢力の言うままであったり、自律的な国家運営のハンドルを握っていなかったりすれば、いざというときにわれわれ一人ひとりのために創った「国家」が頼りにならないことになり、われわれはいったい誰に民主的正当性を問えばいいのかわからない。人は1人では生きていけない以上、たまたま何かの縁で生まれ落ちて生活を営む家族関係から地域共同体までの緩やかな地域コミュニティが自律的に存在しなければ、「寄る辺」がなくなって「個」が「孤」に変容してしまう。
われわれは、この地域と国家の自律を一度ほぼ手放している。そう、経済的なグローバリゼーションだ。国境を越えたのは人権等の普遍的価値ではなく、強欲資本主義だった。外国資本との闘いのために企業は内部留保を優先させ、富の偏在に人々は怒ったとしても、この責任を負う対象は国家ではなくそれを飛び越えた“グローバルな市場”であり、もはや一国の民主主義では修正できなくなってしまった。経済的文脈で、国家の自律や主権が脅威にさらされた。
これにより、東京・都市一極集中と大店法(大規模小売店舗立地法)によるショッピングモールに象徴されるような無機質な地方都市開発によって、地域コミュニティは破壊された。格差の拡大と寄る辺を失った生身の個人は、生気なくさまようという市民社会が形成されつつあった。
ここに、現代的な課題としてデータ・グローバリゼーションが拍車をかける。
データ、AI、アルゴリズムを前に溶解する国家と個人
私たちはもはや、日々スマホなしで生きていけない。さまざまな無料のアプリを何気なく使用している。しかし、一度立ち止まってほしい。「タダより怖いものはない」というではないか。無料の対価としてわれわれは何を差し出しているのか。
それは私たち自身である。
日々のスマホでのクリックや、サイトの閲覧履歴によって、データの世界の中に「自分のような人」が創られる。テレビはNHKか教育テレビを中心にプレミアムシアターが好きで、ビールはアメリカのクラフトビールばかり。音楽はクラシック中心で、野球はMLBも見るが国内では巨人ファン。政治的には自民党も立憲民主党にも批判的で、憲法改正には肯定的……これくらいなら外に出せるが、さらに詳細かつコアな情報で練り上げられた「デジタルツイン」ともいうべきデータ空間での人格が出来上がっている。
気づけばアルゴリズムに先回りされた自分好みの広告や言説ばかりの「フィルターバブル」の中にすっぽり包まれている。
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