デジタル庁が「打上花火」にならない為の処方箋 個人や国家の「自己決定」菅政権は何ができるか

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平成の30年を経て、制度疲労や人の善意の極度の依存も含めて、われわれは「このままいけばぶっ壊れる」という諸問題を継ぎはぎのように場当たりで対処するフリをするか見て見ぬフリをして先送りにするかして放置してきた。

とくにデジタル社会での諸問題は、善意などに任せていたら、知らぬ間にアルゴリズムに取り込まれ、もはやなぜその決定がされたのかすら誰にも説明できない状態に置かれる。

個の尊重か、全体が個を飲み込むか

現在、中国ですでに行われているようにこのオンラインにおける「データ人格」をスコアリングされ、点数によって与信や保険から、レンタサイクルの利用時間まで決められる社会はすぐそこまで来ている。このような社会に日本はシフトするのか? それとも、ヨーロッパにおけるGDPR等に見られるような厳格な規律によって個人の尊厳の一線を守るのか。実は、データ社会においてどのような国家像を選択するかは、個を尊重するのか、全体が個を飲み込む社会を選ぶのか、ナショナル・アイデンティティをいかに再設定するかを迫られている。

法や制度によって、われわれの自由の一線を死守するためのラインを明確に引き、国家だけでないプラットフォームの説明責任や民主的正当性を確保する必要があり、どこまでいってもこれらを法で規律しなければならない。

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果たして、菅政権の掲げるデジタル庁はこれらの諸課題への処方箋となるのか。内閣府が典型だが、権限も予算もない総合調整機関にならないためにも、関係省庁を設置法レベルで改正する等の抜本的制度再編をせねば、ただの「打ち上げ花火」となるだろう。

いまだに菅義偉氏のこだわるナショナル・アイデンティティは見えてこない。理念なき場当たり政策では、平成の社会的負債を引きずるだけである。「令和」を発表し巷で「令和おじさん」という呼び名も流布した菅首相が、令和以前で「見て見ぬフリ」をしてきた諸課題を見て見ぬフリをしてきたことを自認し、ここで日本国がどのような国家的ビジョン、ナショナル・アイデンティティを再設定できなければ、ただのおじさんになってしまう。

何より、コロナ禍を経てなお自由や法を軽視する市民社会を構成するわれわれ一人ひとりが何を大切にするかが問われている。市民社会の一員として、この時代のわれわれがいったいどのような「個人」像を描き、そのためにいかなる「国家」を望むのか。読者の皆さんと一緒に考えたい。最後は少し楽観的に言おう、まだ遅くはない。

倉持 麟太郎 弁護士

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くらもち りんたろう / Rintaro Kuramochi

1983年、東京生まれ。慶応義塾大学法学部卒業、中央大学法科大学院修了。2012年弁護士登録(第二東京弁護士会)。弁護士法人Next代表弁護士・東京圏雇用労働相談センター(TECC)相談員として、ベンチャー支援、一般企業法務、「働き方」等について専門的に取り扱うも、TOKYO MX「モーニングクロス」レギュラーコメンテーター、衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考人として意見陳述(2015年)等、企業法務実務の傍ら、憲法理論の実務的実践や政策形成過程への法律実務家の積極的関与について研究。共著に『2015年安保~国会の内と外で~』(岩波書店、2015)、『時代の正体2』(現代思潮新社、2016)。

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