デジタル庁が「打上花火」にならない為の処方箋 個人や国家の「自己決定」菅政権は何ができるか
菅政権が誕生し、「デジタル庁」の新設が休日返上で進められている。
安倍晋三・前首相の後継と目されていた岸田文雄氏や、最後まで「国民」からの支持が自民党支持者も含めて高かった石破茂氏。そのいずれもをまったく寄せつけない圧勝を見せたのは、安倍・前首相の「女房役」だった菅義偉氏であった。
ただ、自民党総裁選の演説のどれを見ても、菅氏のビジョンは見えてこないと感じた。どのような国家を形成するのか。菅氏はいったいわが国特有の国民性をどう捉え、そして、そんな生身の人々の集合体から、どうやってわが国の市民社会の「個人」概念を設定するのか。これらの問いには、何らの答えが与えられていないように思える。「自助・共助・公助」というスローガンも、もはや批判するだけの内実さえないのではないかと思えるほど、「熱」が伝わってこないのだ。
その中でも、菅氏は、国家観やビジョンの一段下の各論的な政策の1つとして、「デジタル庁」の創設を掲げている。わが国におけるいわゆる「デジタル」と「デモクラシー」の関係はいかに捉えたらいいか。ハンコを不必要にすることや、「いい加減、PDFで文書管理しよう」といったことは議論するまでもなく「ただ単にやればよい」話であって、デジタル・デモクラシーにおける国家的アイデンティティを問われている。
拙著『リベラルの敵はリベラルにあり』でも、この点はデータ・グローバリゼーションの文脈と、もはや“暴力的”ともいえる現代データ社会の荒波で日本がとるべき舵取りと、AIによって“先回りされる”個人について、論じている。
「自己決定」などおずおず言っていられない
そう、「国家」も「個人」も「自己決定」などとおずおずと言っていられないのではないか。
筆者は、リベラルな価値の実現とは、最大公約数的にいえば、人々が自由に「自分らしく生きる」ための生を構想でき、そのために国家権力が奉仕すべく明確な法的・制度的システムによって公的権力をコントロールできている状態を指すと考えている。法による線引きが明示されていなければ、われわれはどこまでいかなる自由があるのかわからず、自由は萎縮で窒息する。
さて、このリベラルな社会を実現するためには、まずもって「個人の自律」が核心である。そのためには、「地域コミュニティ(共同体)の自律」、そして「国家の自律」が保たれている必要がある。
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