菅政権が避けられない「安全保障」の大問題 日本で敵基地攻撃能力議論が出てきた経緯
安倍前首相の異例の「談話」
9月11日、安倍晋三前首相が「ミサイル阻止」に関する談話を記者会見で発表しました。新しい首相を選ぶ自民党総裁選を3日後に控えたタイミングのことでしたから、異例な印象を受けた方も少なくなかったと思います。おそらくイージスアショアを断念した安倍前首相が、安全保障の重要課題を積み残して去らねばならない無念を感じ取ったのは私だけではなかったはずです。
この安倍談話では、とくに北朝鮮がミサイル能力を向上させ、日本のミサイル防衛網を突破しようとしていることに触れています。今後、わが国がそれに対応する形で、ミサイル迎撃能力を向上させねばならないことは議論の余地なしですが、はたしてそれだけでよいのか。迎撃能力を上げるだけで、日本の平和な暮らしを守れるのかという問題意識を明らかにしました。
そのうえで安倍前首相は、今年の年末までにミサイル阻止の新たな方針を示すよう、菅政権に対して宿題を課したわけです。
最近、急に取り上げられるケースが多くなった「敵基地攻撃能力」が必要かどうかの議論にも関連するテーマですが、この問題を考えるには、少し時計の針を巻き戻し、この半世紀、日本の防衛の考え方がどのように移り変わってきたのか、見てみる必要があるかもしれません。そのために防衛大綱がどのように変遷してきたのか、その流れを簡単にご説明しましょう。
防衛の基本的な指針である「防衛計画の大綱」が初めて策定されたのは40年以上前、1976年のことでした。
それまで自衛隊は、1954年の設立以来、第1次防衛力整備計画から第4次防衛力整備計画まで、防衛力を少しずつ向上させてきました。しかし、日本が防衛力を強めるということは、すなわち周辺の国が不安に思う可能性も生じるわけですから、わが国ではその点が強く懸念されていた時代です。
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