立花隆と考える、自然界との正しい向き合い方 人間の価値体系を押し付けるとどうなるのか

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害虫との戦いを放棄しろというのではない。戦うこと自体は自然である。すべての生物は敵を持ち、その敵と戦いつづける。しかし、その戦いが、相手の種族を全滅させるジェノサイドの段階まで推しすすめられるなら、これはもう自然に対する反逆である。害敵撲滅の思想は、生物界に持ちこまれたアウシュヴィッツの思想といってよい。

かつての中国のスズメ撲滅運動の結果が、害虫の大発生による大凶作であったように、ジェノサイドは取り返しのつかない惨禍をもたらす。

自然界において各生物がそれぞれに持っている害敵は、ミクロのレベルではいないほうがよい存在であるが、マクロのレベルではいなくては困るという弁証法的な存在である。害敵撲滅の思想は、ミクロのレベルでは正しい論理を、マクロのレベルにまで盲目的に押し広げることによって成立する。

もし、絶対的に害のみをもたらし、悪のみを働くような存在があるなら、その存在を根絶やしにするのは正しい。しかし、善悪、害益が表裏一体になっている存在を抹殺してしまうのは正しくない。

人間社会でも同じことがいえる

これは自然界に限らない。人間社会においても同じことである。禁酒法が、飲酒による弊害を防ごうとして、いかなる禍(わざわい)を社会にもたらしてしまったかは、1920年代のアメリカ社会が証明している。また日本でも、売春防止法の成立当時、これはザル法であるから、売春を根絶することはできないと非難された。事実その通り、売春は完全になくなってはいない。しかし、むしろだからこそよかったのだともいえる。

この法律がザル法でなく、もしほんとうに売春を撲滅してしまうものであったなら、一時的にそれに成功したとしても、その後なにが起こっていたか。おそらくそれは売春撲滅論者も決して望んではいなかったような事態であったにちがいない。

人間社会に根絶すべき悪や悪人がはたして存在するのかどうか、これは疑問である。いかなる悪行や、悪人も、マクロの視点からは弁証法的に是認できる存在になっているのではないだろうか。悪を禁じ、悪行者を制裁するまではよいとして、それがジェノサイドにまでいきついたら、人間の人間に対する越権行為になるのではないだろうか。

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