立花隆と考える、自然界との正しい向き合い方 人間の価値体系を押し付けるとどうなるのか
幸い多くの社会では、きわめて特殊な行為だけが、罪刑法定主義によって裁かれるだけである。しかし、歴史上にはときどき、偏狭な価値体系をもった厳格主義者が為政者として登場し、その価値体系を容認しないものを抹殺しようとする。
ファナティックな宗教思想ないし、宗教的思想の持主が為政者になった場合には、ほとんど例外なくそうだった。古くは、キリスト教徒の抹殺をはかったローマの諸皇帝、あるいは新教徒を聖バルテルミーの日に虐殺したシャルル9世、近くは共産主義者と反共主義者とが方々で似たことをしている。
人類史において、社会全体が価値体系について完全なコンセンサスを成立させた実例はない。おそらくそれは求めるほうが無理というものなのではあるまいか。倫理を考え抜いたカントが到達した結論は、倫理は形式においてしか成立しないということだった。それにもかかわらず個々人は、なんらかの価値体系を持たずにはいられない。そこで人は、自己の価値体系が個的であることに満足することを学ばねばならない。
多様な価値体系を認めることが大切
どこの企業でも、嫌われ者の管理職者がいる。例外なく、自己の価値体系の相対性を学ぶことができなかった人物である。10人の人間を管理する人物は、少なくも10通りの価値体系を是認していなければならない。古来、大人物の特性の一つとして"清濁あわせ呑む"ことがあげられている。いいかえれば、多様な価値体系を認めるということである。
人類の自然への対し方をみていると、人間の価値体系を自然全体に押しつけようとし、まだ"清濁あわせ呑む"ことを学んでいないようだ。それなのに、この巨大な自然の管理者に成り上がろうとしている。このままいけば、嫌われ者の管理者となり、自然から総スカンを食うだろう。
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