フォークソングを愛する人に甦る全盛期の記憶 社会現象には背景があり、歌にも行程があった
フォークソングが黄金時代を迎えるのに、その後押しとなったのがフォークのレコードレーベルだ。日本初のインディーズレーベルとなったURCレコードを始め、エレックレコード、ベルウッド・レコードなどが次々と誕生していった。これだけではなく、大手レコード会社の中にも、フォークソングを扱う専門のレーベルが生まれていく。
最も画期的だったのが、1975年に吉田拓郎、小室等、井上陽水、泉谷しげるによって設立されたフォーライフ・レコードだ。この夢のようなレーベルが、どれだけ野心的であり冒険に満ちていたかは、『フォークソングが教えてくれた』に詳しく書いたのでじっくりと読んでいただきたい。
ヤマハが主催したポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)や、全国各地でおこなわれたフォークのコンテストによって、フォークソングの裾野はさらに広がりをみせていく。そしてそれは、新しい若者の音楽=ニューミュージックへと進化を遂げていくことになるのだ。
全盛期を迎えたフォークソング
1972年に、吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒット、それに続く「旅の宿」はオリコンのチャートで第1位を獲得した。南こうせつとかぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのは1973年の10月のこと。この年には、井上陽水のアルバム『氷の世界』が日本レコード史上初の100万枚を超える大きなセールスを記録した。この一連の動きからみても判るように、フォークソングは一挙にメジャーなものになっていく。
歌謡曲の牙城であった日本レコード大賞にも、フォークソング勢がどんどんと進出していく。1970年には「走れコウタロー」のソルティー・シュガーが新人賞を受賞、翌年の13回では「恋人もいないのに」を歌ったシモンズが同じく新人賞を獲得。この年の作詩賞は、「戦争を知らない子供たち」を作った北山修だった。
1974年はグレープの「精霊流し」で、さだまさしが作詞賞を受賞。同年の編曲賞は井上陽水の「夕立」をアレンジした星勝で、企画賞は井上陽水のアルバム『氷の世界』であった。同時に海援隊のシングル「母に捧げるバラード」も企画賞を受賞している。
1974年の第16回日本レコード大賞はフォークソングが大躍進した年で、日本レコード大賞の栄光に輝いたのは森進一の「襟裳岬」。ご存じのようにこの曲は、岡本おさみが作詞をして吉田拓郎が曲を書いたものだ。まさにフォークソングの時代の到来であった。
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