「部活クラスター」と大騒ぎの人々に映る深い闇 誰が感染してもおかしくないのに責めてどうする

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一方、同高の北村直樹校長は校内に対策本部を設置したほか、「生徒の落ち度ではなく、学校としての感染症対策の不備に起因している」と自らの非を認めたうえで生徒たちを守ろうとするコメントを発表しました。さらに松江市の松浦正敬市長も、「決して市中感染が広がっているわけではありません。誰もがかかる可能性のある感染症であり、犯人探しやSNS上の誹謗中傷は謹んでいただくようにお願いしたい」とコメントしたにもかかわらず、追い詰められている同校や生徒たちを責める声が後を絶たないのです。

批判をあおり巨大化させるフレーズ

その他、“部活クラスター”としてメディアが報じている主なものを挙げていきましょう。

「日本大水泳部で10人超が感染」
「大阪商業大学高校で同じ運動部の生徒8人が感染」
「中部学院大で同じ運動系の部活に所属する学生10人が感染」
「中央大の合宿所で共同生活をしていた運動部員11人が感染」
「京都府で同じ部活動の練習試合をした中学生ら8人が感染」
「福岡県大牟田高校で同じ運動部の部員を含む27人が感染」

各地域にとってこれらを報じることは必要なことであるものの、学校や部活動そのものを問題視させるような報じ方は行きすぎでしょう。メディアがまるで“コロナ警察”のように各校各部の感染を報じて人々の批判をあおり、批判の声があがると、それを報じてまた批判をあおる。このように多くの批判を集める負のサイクルを作り、“部活クラスター”というフレーズでくくることで、その声を巨大化させているのです。

たとえばワイドショーでは出演者たちが「悪いのはウイルスであって感染者ではない」などとコメントすることで批判とのバランスを取ろうとしていますが、その程度では批判をあおるような演出を相殺したことにはならないでしょう。

特に批判をあおるようなワイドショーの報じ方は、人々のネガティブな感情を呼び起こすスイッチの1つになっています。このような報じ方は今にはじまったことではありませんが、誰しも当事者であり、自分を守るために他人を批判しがちな新型コロナウイルスに対する報道として適切とは思えません。

有名な強豪校でも、大人数で寮生活をしていても、「メディアにとってのキャッチーなトピックスになる」というだけで、感染という観点では他のケースと同じ。勝手に特別視したうえで、「どんな問題があり、誰の責任なのか」と粗を探すような報じ方をする必要性はないでしょう。

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