李登輝「台湾に生まれた悲哀」で貫いた奉仕人生 どんなに大変でも台湾の為に次の世代の為に

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1947年2月には本省人と大陸からの移住者である「外省人」との間で大規模な衝突が勃発。事態を収拾するためだとして国民党政府は台湾に軍事部隊を派遣し、多数の「本省人」が虐殺される「二・二八事件」が起きた。李登輝氏の知人もこの事件に巻き込まれ、命を落とした。

その2年後の1949年、大陸で中国共産党との内戦に敗れた蔣介石総統が率いる国民党は台湾に撤退。台湾で独裁体制を整え、中華民国を存続させる。大陸との内戦継続を理由に1987年まで続く世界でも例をみない長期の戒厳令体制が敷かれ、「白色テロ」と呼ばれる台湾独立などを主張する反体制派に対する政治弾圧が行われた。李登輝氏は同年に台湾大を卒業後、大学教員や農業技師を務めたが、過去に共産党関係の勉強会に参加したとして当局の監視下に置かれたこともあり、不安な日々を過ごした。「われわれの世代は夜にろくに寝たことがなかった。子孫をそういう目に遭わせたくない」と李登輝氏は当時を振り返っている。

台湾住民が自らトップを選ぶ民主化を主導

1968年、李登輝氏はアメリカのコーネル大学で農業経済学の博士号を取得。帰国後は農業経済学の専門家として台湾大教授などを務め、専門家としてキャリアを積んだ。転機となったのは1971年、蔣介石総統(当時)の息子である蔣経国氏に見出され、国民党に入党。72年に蔣経国氏が行政院長(首相)に就任した際には当時の最年少閣僚(49歳)として入閣した。

1970年代は台湾にとって1971年の国際連合脱退(実質追放)や1972年のアメリカのニクソン大統領の訪中、日中国交正常化にともなう日本との断交など外交危機を迎え、海外からの支持を失いつつあった。実質外来政権として台湾を統治していた国民党政権は自らの正統性を台湾内で担保するため、人口の8割以上を占める本省人を登用する「台湾化」の方針をとった。李登輝氏はそのなかの1人として選ばれた

台北市長や台湾省政府主席などの要職を経て、1984年に蔣経国総統のもとで副総統に就任。そして1988年蔣経国総統の急死に伴い、総統の地位を襲った。初の「本省人」総統だ。しかし、総統に就いたものの李登輝氏は国民党内に支持基盤がなく、周囲には「外省人」の古参幹部がひしめくなど、「丸腰」の状況での最高権力者への就任だった。

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