李登輝「台湾に生まれた悲哀」で貫いた奉仕人生 どんなに大変でも台湾の為に次の世代の為に

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1990年、李登輝氏の総統としての任期が切れる際には国民党内で後継者をめぐり、激しい政争が勃発。キリスト教徒である李登輝氏はその渦中で、聖書を開き「どうすべきか」と神に問いかけたと自身の著書で回想する。そこで示されたのは「イザヤ書」第37章35節、「わたしは自分のため、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救おう」で、それを受け「どんなに大変でも、台湾のために、次の世代のためにやろう」と決めたという。

その後、国民党内の分裂状態や急進改革を主張する当時野党の民主進歩党(民進党)と学生運動などの世論の影響力を利用し、政争に勝利。新たに1996年までの総統任期を確保したのち、民主化をはじめとする政治改革を求める民意を背景に、国民党内外での調整や交渉に手腕を発揮した。中国から台湾に移って以降、居座り続ける国会の「万年議員」や政敵を引退や失脚に追い込み、中国大陸を統治する前提で作られていた当時の憲法や政治制度を実際に統治している台湾とその周辺島嶼に合わせる各種改革を主導した。その仕上げのひとつが1996年に行われた初の総統直接選挙だ。台湾の近現代史で初めて台湾住民が自分たちのリーダーを選ぶ権利が認められた瞬間だった。

自分たちのリーダーがいるという実感を意識づけた

初の直接選挙を含め、李登輝総統の存在は多くの台湾住民に強烈な印象を与えた。外省人とは異なる台湾訛りの中国語を話し、演説では独裁体制下で使用を禁じられていた台湾語(台湾などで使用される中国語)が堂々と使われた。自分たちのリーダーがいるという実感、そして投票でリーダーを選んでいる実感は多くの台湾住民に自分たちは台湾という共同体で生きていることを意識づけた。

一方で、中台関係が悪化した時期でもあった。中国は李登輝氏が主導した一連の政治改革や直接選挙の実施が台湾独立につながると反発。台湾の周辺海域にミサイルを発射するなど威嚇した。アメリカ軍が空母2隻を台湾近海に派遣するなど緊張が高まったが、台湾ではむしろ毅然と対応する李登輝氏へ支持が集中する結果となり、李氏が初の民選総統に就任した。

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