徳川家康「祖父に売り飛ばされた」超壮絶人生 実父の死、人質生活をどう乗り越えたのか?

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知多地域は、周辺の大名にとっても垂涎の地域であり、この地域を巡って権謀術数を繰り広げていたのである。当時、知多地域に勢力を持っていたのは水野忠政という大名だった。忠政は、織田に対抗するために、松平家と手を結んだ。

忠政は娘の於大(おだい)を、松平の跡取りである松平広忠に嫁がせた。その於大と広忠のあいだに生まれたのが徳川家康なのである。

しかし忠政が死ぬと、跡取りの水野信元は松平と手を切り、織田信秀と組むことにした。そのため広忠に嫁いだ於大は、松平家から離縁されてしまうのだ。家康が生母と生き別れになるのは、家康が1歳(数え年で3歳)のときである。だから家康は、母の顔を知らないのだ。

祖父に売り飛ばされた徳川家康

しかし、家康の苦難は、じつはこれからが本番だった。松平家は、織田家に対抗するために、今川家に支援を仰ぐ。今川家に事実上の臣従をしたのである。そして、幼い家康を人質として駿府(静岡県静岡市)の今川家に送ることになった。

ところが、家康を送り届ける役目の戸田康光が織田家と通じており、今川家に届けずに織田信秀のもとに届けてしまった。『三河物語』によると、このとき家康は1000貫文で売られたという。

康光は、家康の母・於大が離縁された後、松平広忠の後妻に入った真喜姫の父である。家康から見れば、義理の祖父だ。つまり、家康は義理の祖父から売られたことになる。

とにもかくにも、こうして家康は人質として尾張の織田家で生活することになった。家康、5歳のときのことである。

家康幼少期の波乱万丈はまだまだ続く。尾張での人質生活が2年ほど経ったころのことである。家康の父・松平広忠が急死してしまったのだ。

死因は、病死、暗殺など諸説あるが、明確になっていない。松平家は、当主を失い、後継ぎは他家に人質に取られているという状況になった。つまり、松平家は当主が不在ということになったのだ。

このころ今川家と織田家は、激しい抗争を繰り広げており、今川家が織田家の支城である三河・安祥城を攻略した。このとき、織田信秀の庶子である信広が生け捕りにされた。信広は、信長の庶兄である。

今川家と織田家は、この信広と家康の人質交換をおこなった。そのため家康は、今度は今川家に人質として送られた。今川家としては、家康を人質に取ることで、松平家の三河領を実質的に支配下に置こうとしたのである。

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