徳川家康「祖父に売り飛ばされた」超壮絶人生 実父の死、人質生活をどう乗り越えたのか?

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なぜ、家康が「待つこと」ができたのかというと、彼の幼少期からの「成功体験」がモノを言っていると思われる。家康は、人生体験として、いつか人にはチャンスが回ってくるということを知っていたのだ。

彼の「待つこと」における最初の成功体験は「桶狭間の戦い」だと言える。家康は、「桶狭間の戦い」までは悲惨な幼少期を送っていた。

家康の松平家は、三河国加茂郡松平郷(愛知県東部)を本拠とする豪族だった。家康の祖父、松平清康のときに分散していた松平一族を結集させ、三河国で大きな勢力を持つに至った。

が、三河という国は、戦国時代は非常に「微妙な位置」にあった。というのも、東の駿河(静岡県中部)には今川義元という将軍家の血筋を引く名門大名がおり、西には織田信秀という新興大名が急速に勢力を拡大していた。

家康が置かれた厳しい環境

今川義元は、遠江(静岡県西部)、駿河に加え三河や尾張(愛知県西部)の一部と合わせて、100万石近くの版図を持っていた。当時は「東海一の弓取り」とさえ言われ、有数の強豪戦国大名だったのである。

一方の織田信秀も、領地こそ尾張半国だったが、津島などの重要な港を押さえ相当な経済力を持っていた。織田家は、信長の代で急に発展したと思われがちだが、じつは信長の父・信秀の代で、すでに今川に対抗できるほどの勢力を持っていたのだ。

三河は、この両大名に挟まれているというだけでも、かなりシンドイ状況だった。が、三河には、さらに危うい要素があった。三河は、知多半島の付け根の部分にある。この知多半島は、古くから常滑焼という全国的な陶器ブランドの産地だった。

家康が置かれた厳しい環境(図:『家康の経営戦略』より)

知多半島の窯業は、12世紀ごろから盛んになったとされ、知多半島製の土器は、全国各地で発見されている。知多半島は、中世から日本最大の土器生産地域であり、もっといえば中世では日本有数の工業地帯だったわけだ。

さらに、知多半島の土器を「輸出」していたのは、伊勢から熊野にかけての海民たちと見られており、この地域は輸送業も盛んだったのだ。つまり、この地域は、当時の日本でもっとも発達していた商工業地域の1つだったと言える。知多商人というと、大商人が多く、後年、江戸の吉原を仕切っていたのも、知多商人なのである。

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