「隔離」は私権制限の最たるものだ。日本でも結核患者やハンセン病患者に対する国家の強制隔離が基本的人権を侵害してきたことは恥ずべき歴史の一部だ。そうした歴史への配慮もない提案は驚きである。
新型コロナは未知のウイルスであり、その性質などは現在解明が進められている。そのため、「専門家」とされる人々の間でもその説明や対策などで意見が一致しない。日本がなぜ感染者を抑え込めているのかもはっきりしないのは確かだ。明らかなデマやフェイクニュースは論外だが、厚生労働省の発表やNHKの報道であっても、事後的に正しかったといえるかどうかはわからない。
こうしたもどかしい状況下では、メディアの報道も勢い大げさなものになりがちだ。そして、メディアが新型コロナの脅威を報道すればするほど人々の恐れも必要以上に拡大していく。そうした中で、人々は政府に対し魔法の杖のようにコロナの感染拡大を止めてくれる手段を望んでしまう。しかし、魔法の杖はなく、極端な解決策ほど大きな副作用や大きな落とし穴が待ち受けているものだ。
管理国家への誘惑を断ち切る必要
「9.11」後のアメリカで、人々の監視を強化する米国愛国者法の成立や対イラク戦争に国民を駆り立てていったものとして、マイケル・ムーア氏の映画『華氏911』ではメディアによる「恐怖と消費の大宣伝」の存在が指摘されている。コロナ危機でもそうした動機の存在を注意深く疑ったほうがいい。
韓国や中国など海外で実施されている厳格な新型コロナ感染症対策の裏側では、個人の自由やプライバシーが侵害されていることも冷静に考えるべきだ。私たちは本当にかの国のような管理国家を望むのか。いわゆる「自粛警察」がはびこる今の日本にそうした予兆を感じないだろうか。
すでに、新型コロナで家族を亡くした人がそのことを親しい友人にも言えないという不自由な国になってしまっている。普通の葬儀も出せない状況だ(参考記事『新型コロナでも「普通の葬儀ができるはずだ」』)。また、感染者が家族にいるということも、子どものいじめなどを恐れて友人に相談できないのだという。そうした怖い状況の中から、「陽性者は隔離」という発想は出てきた。
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